羊太夫、八束小脛に関する古典の抜き書き

0001b 羊太夫(羊大夫)は、群馬の伝説です。「ひつじだゆう」または「ひつじのたいふ」と読みます。伝説によれば、足の早い従者・八束小脛(やつかこはぎ)を連れて、群馬県の多胡郡から、奈良の都まで毎日通勤たと言われています。この記事では、江戸時代以前の古文書から、羊太夫と八束小脛についての記述を集めます。

多胡碑

成立年代:和銅四年(711年)ごろ

弁官符上野國片罡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

# 石造りの古碑で、羊という人が朝廷から多胡郡をたまわったことが刻まれている。歴史の記録であって、足が速いなどの伝説はここにはない。
# 「給羊」の部分は、羊を人名とせず、方位とする説もある。

IMG_2944s ▲上毛かるた「むかしを語る多胡の古碑」 漫画などで群馬に上毛かるたがあることは有名になったようですが、漫画の誇張でなく、群馬で生まれ育つと誰もがかるたの札を暗唱できるんですよ。多胡の古碑も、実物を見た事なくたってみんな知ってます。

 この古碑の内容が、後に不思議な伝説となります。前にこういうページも作ったことがあるので興味のある方は読んでみてください。

◎昔話の舞台をたずねて「羊太夫伝説」
http://www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/tanbou/0002.htm

◎羊たちの雄弁「羊太夫」
http://www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/sheep/0001.htm

 羊太夫の伝説そのものは前から知っていました。といっても知ったのは2000年代に入ってから。群馬に住んた頃にはまったく耳にしたことがなく、なぜこんな面白い話を語りぐさにしないのかって驚いたのを覚えてます。

 ところで、この羊太夫伝説、いつごろ成立したのか、ぶっちゃけた話明治以降の創作だったらヤだな、ということで、羊さんが出てくる古典を読みあさろうではないか、というのが今回の抜き書きです。


神道集

成立年代:南北朝時代中期(14世紀後半)
底本:平凡社『東洋文庫94 神道集』貴志正造・訳
赤城大明神の事 p.125

 その後、群馬郡の地頭伊香保大夫は、利根川より西の七郡中、最も足早で有名な羊の太夫という人を呼び出して、手紙を書き、二人の姫の父大将の自殺のことを都へ報告した。
 この羊の太夫は、午の時に上野の国の多胡の庄を出発して都へ上れば、未の時には都の指令を受けて、申の時には国もとへ帰着するので、未の太夫と呼ばれる。だから彼は申の半ばに、上野の国群馬郡有馬郷を出発して、日の暮れに京の三条室町に到着した。

あらすじ:履中天皇の頃(5世紀くらい)。赤城御前は、二人の妹とともに、たいそう美しい姫だった。しかし継母とその弟に憎まれて、二番目の姫とともに殺されてしまう。末の姫だけは伊香保大夫(いかほのたいふ)が総力をあげて守る。姫たちの父親は都から帰り、この惨状を知り、ショックのあまり自殺。伊香保大夫はこのあたりで最も足の早い羊太夫を呼び、この出来事を都に知らせるように言った。

メモ:
羊太夫は足が早い。
伊香保大夫に召し使われているので、あまり偉くなさそう。 従者の名前等は出てこない。


盍簪録

「かっしんろく」または「こうしんろく」と読むらしい。
成立年代:1700年前後
底本:
光藤家所蔵『盍簪録』148-149コマ

# 後半に馴染みのない異体字もあり、間違ってたらごめんなさい。

此碑在野州多胡郡本郷村界今属長崎豫州之米邑、有大樟樹擁其傍、碑身半為所齧、土人呼為羊大夫之社、不知何故、或以為穂積親王之墓、不知前世置県之碑、按続日本紀云、和銅四年三月、割上野国甘楽郡織裳韓級矢田大家、緑野郡武美片岡郡山等六郷別置多胡郡、碑蓋此時所建、又按慶雲三年二品穂積親王知太政官事、和銅元年石上麻呂任左大臣、藤原不比等任右大臣、故碑上各列名衘、但石上藤原字下字蝕不明、以上例推之當各有朝臣二字、観此則前時王化之隆、郡図并省建置、心有表碣以徴後襖、但陵谷変遷水火焚蕩、今不復存、殊増考古者之一慨云、庚子三月記

スクリーンショット 0029-09-13 21.15.50s
▲このようなイラスト付き。リンク先にあるものをキャプチャして引用。

# 注意:以下は大ざっぱでテキトーな訳なので学術的興味で読む場合は信用してはいけない!
この碑は野州多胡郡本郷村のさかいにあり、今は長崎豫州の米村に属す。大きなクスノキがその傍らに立ち、碑身に欠けた部分がある。土地の者はこれを羊大夫の社と呼ぶが、理由はわからない。あるいは穂積親王の墓とも言うが、いにしえの置県を記念した碑だと知らないのだろう。按ずるに、続日本紀に言う、和銅四年三月、上野国甘楽郡からは織裳。韓級、矢田大家、緑野郡からは武美、片岡郡からは山等、六郷を分けて多胡郡を置いたとあるり、碑はおそらくこの時建てたものである。また按ずるに慶雲三年、二品穂積親王が知太政官事に、和銅元年には石上麻呂が左大臣に任ぜられ、藤原不比等は右大臣に任ぜられている。碑にはそれらの名前が列挙されている。ただし、石上と藤原は名前が省略されており定かではない。(この後は意味わかんないので省略)

#『山吹日記』に「長崎弥之助が伊藤東厓に語ったものが盍簪録に記され、世に知られるようになった」と書いてある。
# 多胡碑についてイラスト付きで書いてあるだけで、羊の伝説等は記されていない…と思うんだけど、漢文読めなくてさあ(あはは)。
# 『山吹日記』の頃には覆堂があったが、『盍簪録』にはその記述がないので、この時代にはなかったかも。


上野国風土記(上毛国風土記)

成立年代:不祥(1700年代の中ごろ?)
底本: 大和文華館蔵『上野国風土記』 18コマ、23コマ
国会図書館蔵『上野志料集成』 135コマ、139コマ

秋畑村 往昔、羊の太夫住する処、屋敷跡有。

長根
 往昔長根羊太夫と云者あり。牛に乗り大内裏に参勤すること毎日といふ。又緑野郡の内に七輿の松と云有り。羊太夫房中の女身を投ぜし処といひ伝ふ。

田子の碑
 池田村にあり。今は堂を建てむざと見せず。  委しきこと坂東岩附慈光寺にあり。縁起にも出る。羊太夫書写の大般若等宝物あり。古き事共なり。

池村の石碑(いしふみ)
 之を田子の碑と云ふ。銘に曰。

瓣官符上毛野国片岡郡緑野郡甘良郡并三郡内三百戸郡成給羊成多胡郡
和銅四年辛亥三月九日甲寅
宣左中瓣正五位下多治比真人太政官二品穂積親王左大臣二位石上尊右大臣二位藤原尊

 『上野国風土記』は撰者(著者)も出版年もわかっていない。ただ、大和文華館版の巻末に黒河春村の端書きがあり、100年ほど前のものだろう、と書かれている。その説をとるなら1700年代の中ごろの本である。内容は上野国の地誌で、そのあたりの寺社、産物、伝説などが収録されている。

メモ:
長根というところから見える山に羊太夫の屋敷跡とされる場所があった。
羊太夫は牛(午でも馬でもない)に乗って都に通った。
七輿の松で羊太夫の妻・妾たちが亡くなった。


上野志

成立年代:1700年代の後半?
底本:国会図書館『上野志』39-40コマ、59コマ、60コマ、95コマ
↑この本には、成立年が書かれておらず、いつごろのものかわからない。黒河春村によると『上毛国風土記』の後に『上野志』が二編、宝暦六年(1756年)と安永三年(1774年)に出版されているそうで、そのどちらかではないか?

八束明神

康平年中、阿部貞任滅亡の時、阿部三太郎といふ者、党類[ ]三十餘人、奥州より山づたいひ悪勢の山中へ落来り、盗賊を業として年月を送る。残党まで馳加り、悪行頗る国家の悩とぞなりにける。

(中略、数百年の時が流れ、その間に阿部三太郎の子孫が沼田城主の家来に召し抱えられて働いて討死にするなどの出来事あり)

悪勢残党三峰山の岩窟に籠りたる余類、夜々村里へ出で食物衣類盗取る。郷民不審に思ひ、彼処へ窺いつけて見せければ、夜に入り岩穴より藤縄を下げ、小道を伝ひて出で、明方また登る。さては岩窟に籠りたる者こそあれと、則ち藤縄切落し、其下に大勢待居ければ、彼の籠る処の賊徒等、出入り叶はず終に餓死したりけり。其臭気遠近に伝はる。さればこそ此者共死にたりとて、桟(かけはし)つぎつぎて足すさまじく、漸く登り見れば、死人算を乱ぜり。其中に長一丈余の大男、鬼神の如く異形の者[ ]ふむといふ計りなし。臭気鼻に満ちて、脳に徹りて黄水を吐く者多し。斯かる勇猛の士も色相変り、岩中に埋まりける其白骨の中に、八束余の脛骨あり。其悪霊、里人を悩しければ、則ち彼の亡霊を八束明神と崇め奉りければ、夫より災難消除してけり。玉泉寺二代曇英和尚八束脛の小祠あり。時に長享二年戊申仲秋十五日、曇英恵応書。文之を略す。御朱印五十石。後閑村玉泉寺。

メモ:
康平年中(11世紀中ごろ)、阿部三太郎という者が徒党を組んで盗みを働き、人々を悩ませていた。
その残党が近くの郷で盗みを働くので、郷人が後をつけると岩穴に藤縄をたらして出入りしている事がわかった。
郷民が藤縄を切り落としたので、盗賊は出られなくなり、餓死してしまう。
中を見に行くと、大勢の死体があり、あまりの臭気に吐く者が多かった。
その中に、背丈が一丈(3mくらい)ほどの巨人がいて、岩の中から八束(60cmほどか)もある脛骨が出てきた。
その悪霊が里人を悩ましたので、八束明神として祀ったところ、災難が消えた。
後閑村の玉泉寺に曇英恵応の書による小祠がある。長享二年戊申仲秋十五日(1488年)。

# 後閑村は今の安中市の一部か? 玉泉寺は県内にいくつかあるが、どの寺のことかわからない。
# 上越線に後閑駅(利根郡みなかみ町)があり、その近くに玉泉寺があるとtwitterで教えてもらいました。これだ! 『山吹日記』に「沼田におはします」とあるのに一致(沼田市すぐ近く)。

多胡碑 池村にあり。
続紀云、和銅四年三月、割上野国甘楽郡織裳・韓級。矢田・大家、緑野郡武美、片岡郡山(奈?)等。六郷別置多胡郡。
羊太夫の墓、緑野郡落合村にあり。七こしの松。長根に住居すといふ。馬庭村に馬塚あり。
落合村、羊太夫の墓・七こしの松。
八■(やつかはぎ)大明神 後閑の北山にあり。
# ■は爪偏に馬。

# 落合村に羊太夫の墓があるとされ、そこに七こしの松というのがある。この本だと、羊と七こしは別のもののような印象。墓がある場所に、たまたま七こしの松がある、というような。 # また、八束脛についても、羊の伝説とは別に語られている。


山吹日記

成立年代:天明六年(1786年)の旅を記録 日下部勝皐・撰
底本:
早稲田大学図書館蔵『山吹日記』42コマ
国会図書館蔵『山吹日記』62コマ
底本がどちらも読みにくいので、以下はかなりいい加減な翻刻ですが、おおまかに意味がわかる程度にはなっているはずです、たぶん。[ ]内はイマイチ読めてない部分です。

福島金井をすぐれば甘楽多胡ふた郡の界成べし。長根吉井など云あたりをも過ぬ。 北の方にや有らんひつじの住たりしあとにて山のはるかに見ゆる。そこに観音大士仏院有りとなん。 是より其道一里ばかりなるべしとて池村に至る。ふるきいしぶみあり。和銅四年のことをゑりつけたり。世に羊の碑といへり。これは長崎弥之助がしる所也。 [彼おほち豫州は我]あづまの仰をうけ奉りてここのへの御垣のほとりにつかうまつりける間、伊藤東厓にかたれりしを、やがて盇簪録(盍簪録)にしるしたるより世にやうやうしりにたり。 されども其頃はまた石のおもてうつす事のさらにはおよばざりき。近頃金井正宇がうちて伝へしよりあまねく人もしりて、稀には打碑せんとて遊ぶ人も有て拓本も世に出きにたり。今は故有て領主よりいかめしう拝殿など作りて碑うつ事をとどめたり。 是を預り守る家にいきてやすらふ。主のおのこ「かねて摺りをきたり。これめせ」とて、あやしのよそほひせしをみせたれど、すべていやしさいはん方なし。價をとへばこがね百匹といふ。[以て此主わからめらの]馬もただ一匹こそ聞ゆめれ。いみじの心たかさよとわらひてやみぬ。 扨も此羊太夫はきこえし此国の人也けり。なにがしとか聞えし高名の馬にうちのりて日毎にももしきの大宮にまうのぼりつかうまつりけりたるに、さるにこのともにしたがうべき人すべてあらず。 ひとりの[そんこ]やつかはぎと聞へしは極て足の長くていとすくよか也ければいささかおくるる事なく常にしたがひたり。 みとせも(或本:みかども)このあまさかるひなのならぢをはるばると[あしたゆく]つこうまつれるを、いそしみめでおもほして、緑野甘楽(みどのかむら)のうちをわかちさきてあらたにたごのこほりをおきて、此主になん給へりける。 かくてある日八束脛みちのゆくてにありながら睡ふたかりければ、[すへなくて]しばしまどろみたり。 そのかたはらにそひ給ひて見れば、わきの下より鳥のつばさのごと見ゆるものはらはらといづるを、いとけしう思てまもりをれば、しきりに生いてくるをあるやらあらんとも思ひたらず、やをらよりてひきぬきつ。 扨おどろき目覚めたるに、この翼をぬきとりたれば、ありしやうに道ゆくべくもなくなりて、今は[給て]まゐらんとす。 さもあらず、おのずから日事のみかどまいりおこたりてまうのぼらねばしばしこそ、さてもすくい給けれ。こはよからぬ心もてかくまいらぬなめりと、おもほしければ、やがて[うての]みつかひをくだして打ちほろぼし給けり。 [そのめこら]なき悲しみつつ、にげゆきたりける所をいまに落合となんいふ。かの、やつかはぎを後に神に[ありまへて]いまも沼田におはしますとなん。

 『山吹日記』は四谷、世田谷あたりから埼玉を通って群馬に抜ける旅の記録です。羊太夫の伝説がかなり詳しく記載されている。

メモ:
多胡の古碑は拓本が出回っており、けっこう有名だった。
この当時、覆堂がつくられて、自由に拓本をとることができなかった。
古碑の管理を任された家に宿泊すると、その家の子が拓本を高額で売りつけようとした。
(このあとに羊太夫の伝説)
羊太夫は名馬にまたがり毎日都まで通っていた。
あんまり速いので誰もついてこられなかった。
八束脛(やつかはぎ)という足が長く健康な者だけが遅れをとらず付き従った。
田舎から奈良路を毎日通って来るので、帝も目をかけて、緑野郡と甘楽郡からそれぞれ一部をわけて多胡郡を作り、羊に与えた。
ある日、八束脛が道の途中で眠気をもよおし、そのまま寝てしまう。
それを、太夫はかわいらしいと思って見ていたが、脇の下に鳥の翼が生えているのに気付く。
見ているうちに我慢できなくなり、翼を抜いてしまう。
目覚めた八束脛は、もとのように走れなくなった。
羊太夫が都に来なくなったので、帝は悪心有りとして、大軍を派遣して太夫を滅ぼした。
太夫の妻子が逃げたところを落合という。
八束脛は後に神とされて今も沼田にいらっしゃるという。

#「そのめこら」と読めそうな部分が読み通りに羊の妻子のことなら、羊の死後に逃げ出してどうにかなったという伝説が、この時代にすでにあったということ。ただ、七輿山という地名については言及がない(…と思う)。今、七輿山古墳がある場所は藤岡市上落合である。


上野名跡考

成立年代:文化六年乙巳中秋(1809年) 富岡正忠・撰
底本: 大和文華館蔵『上野名跡考』 38コマ 44コマ
国会図書館『上野名跡考』 23コマ 25コマ

八束山
神保村の上に有。東権現の祠あり。又観音寺など云寺ありて、いとものふりたり。つたへて羊大夫の墟也といふ。此辺の説に上古羊大夫といふひとあり。その臣八束小脛といふ者よく馬を御して毎日羊をして上京せしむるは小脛が力也。後故有て小脛を害せしかば羊毎日都へ朝することあたはず、終に叛逆の聞有その身滅亡せしといふ。思ふるに羊が事跡はしらず今玆に東権現有は日本武也。扨八束小脛といふもの居しといふも亦似たる事有。日本紀に日本武東征の條に天皇則命吉備武彦与大伴武日連令従日本武尊亦以七掬脛為膳夫云々。按るに是後世の兵粮奉行のたぐひなり八掬脛もまたかかる類なるべし。
世に七輿の松は、羊太夫が妻妾を葬といふ。今七輿山宗永寺有てその故を云。近年石棺を出すといふ。此地佳景也。予一日落合村に至て松をみるに一株に七本出るを以て七腰といふにや。又この地は四面平らにして溝をたたへ中に塚を築ていと高し。按是上古王子親王など葬し陵なるべし。貝原好古が著したる神功皇后の陵八幡宮本記に見たるなり。能彼図に似たりといふべし。諸陵式、天子及親王等の陵は陵守を置れて五戸或は七戸等也。思ふに七輿は七戸の義にや。上野は親王の任し給ふ国なれば国史にもれてこの国に薨し給ひしも猶有ぬべし。一説に羊なるは文武天皇(原文のママ)の皇子刑部親王の諱なりともいへり。

メモ:
神保村のあたりに羊大夫の住居があったとされる。 羊大夫が乗ってたのは馬。
八束小脛の超能力で毎日都まで通勤していた。
大夫が小脛を害したせいで都に行けなくなる。
謀叛の疑いをかけられて滅ぼされる。
この地に東権現があり、日本武尊が祀られている。
日本書紀に、武尊東征のおりに八束脛という兵粮奉行が同行したことが記されている。
七輿の松は、羊太夫の夫人たちを葬った場所とされる。
七輿山宗永寺にその話が伝わっている。
七輿山からは石棺が掘り出されたことがある。
落合村に、一株から七本幹が出た松があり、七輿という。
七輿山は親王などの陵墓に違いなく、かつて陵墓には五戸または七戸の墓守を置くことになっていたので、七輿は七戸の意味ではないか。 一説によれば、羊は文武天皇の皇子・刑部親王の諱(いみな)とも言われる。

# この頃には羊大夫の妻子が七輿山で死んだ伝説もでき上がってる。


この他に、次のような本に羊太夫の伝説が出てくるとか。

『少年日本伝説読本』に参考になる古い本として出てくるもの
 上野名称志(こうづけめいしょうし)
 羊大夫縁起(ひつじのだいふえんぎ)
 続日本紀(しょくにほんぎ)
 天武紀(てんむき) # 日本書紀の? だとすれば忍壁親王の名前が出てくるくらい。
 八束軍紀(やつかぐんき)
 山の伝説 #柳田国男?

『多胡の古碑に寄せて』に挙げられたもの、多胡碑記念館所蔵とある。
 羊太夫栄枯記
 羊太夫一代記
 八束羊太夫実録
 小幡羊太夫宗勝縁起
 西上州多胡郡住人小幡羊太夫宗勝記
 上野国多胡郡八束山千手観音略縁起
 多胡羊太夫由来記
 七輿山宗永寺縁起
 緑野郡落合村宗永寺縁起
 荷福山蓮勝寺記
 羊太夫落城之事

 デジタルアーカイブのネット公開を激しく希望します。


羊太夫栄枯記

成立年代:不明(巻末に寛永年間の話が出てくるので江戸時代以降、おそらく江戸後期)

 これは『伝承文学資料集成6・神道縁起物語(二)』という本に収録されているので、遠くの図書館から取りよせて読んでみました。

 都が奈良にあった時代、元正天皇の御代の出来事という設定ですが、関白が平賀清恒(16世紀)だったり、唐の皇帝がまだ大宗(元正の時代だとたぶん玄宗)だったり、右大弁が洞院実世(14世紀)だったりと、時代考証はめちゃくちゃで、歴史書ではなく伝説を元にして創作された読み物だと思います

 あらすじは以下のとおり。

・藤原鎌足の五代末の孫で藤原将監勝定という人の嫡男とされている。
・羊太夫のフルネームは「八束羊太夫勝宗」
・八束城というところに住んでいる。
・父・勝定は嫡子がないことを嘆き、大沢不動に祈願すると、妻の夢に老人が表れて、この羊を育てなさいと渡される。その後、羊の日、羊の刻に息子が生まれたため、八束羊太夫勝宗と名付ける。
・父・勝定は羊が幼い頃に亡くなっている。
・成長した羊には妻と息子がいる(名前は出てこない)。
・羊の家来は、塩野小太郎光明、南蛇井三郎忠継、黒熊太郎政利、中山六郎清次、鮎川七郎経政、中尾源太夫宗永の6人。
・上記6人以外に、疾走小脛(しっそうこはぎ)と呼ばれる足の速い従者がおり、常に羊と行動を共にする。
・権田というところの長者が、羊太夫に身の丈が五尺三寸もある名馬を献上。権田栗毛と名付けられる。
・羊は権田栗毛にまたがり、疾走小脛を連れて上州多胡郡(今の群馬県吉井町のあたり)から奈良の都まで日参していた。
・ある日、小脛が休憩中に眠ってしまった。羊が近づいてみると、小脛の脇の下にトビの羽が生えていた。羊はほんのいたずら心で羽を抜いてしまう。以来、小脛は走れなくなり、羊もなぜか奈良まで行けなくなる。
・都にはかねてから羊をうとましく思っている者たちがいるが、羊が一年近く参内しないことを謀叛の企てをしているからだと天皇に訴え、羊を討伐する事になる。
・阿芸の国の広島宿祢長利という者が軍勢を率いて上州に向かう。羊は6人の家来のうち、中尾源太に妻子と6人の侍女たちを託し、戦場から逃がす。
・残った家来と小脛とともに宿祢の軍勢と戦うが、多勢に無勢で結局は追いつめられ、羊は蝶に、小脛は鳶の姿になって飛び去る。
・広島宿祢は大沢不動に朝敵討伐の祈願をする。夢のお告げにあった場所に行くと、羊と小脛が切腹し、自らの首を切って死んでいた。
・羊太夫の甲冑と弓矢は岩になり、山の上に残った。名馬・権田栗毛は天子谷の観音となったと言われている。
・中尾源太は追っ手から逃れて落合村(今の藤岡市上落合のあたり)にたどり着き、小さな寺を見つけ、羊の息子をかくまって欲しいと頼む。
・源太と羊の妻、侍女たちは追っ手が来る前に自害する。
・寺の僧侶は村人の助けを借りて7つの輿(こし)を作り、7人の女性たちをひとりずつのせ、近くの山に葬った。それでこの山は七輿山と呼ばれている。源太もまた近くに埋葬される。
・僧侶の寺は源太を開祖として山号を七輿山とされた。
・寛永年間に堀越外記という人が西平井常光寺より石室関梁和尚を招いて開山し、今は曹洞宗になっている。

『現代語訳・羊太夫栄枯記』蘭藍沐・訳
 蘭藍沐(ららむ〜、つまりわたしだ!)による現代語訳で Amazon ダイレクト・パブリッシングから堂々出版してみたので粗筋じゃ我慢できない人はチェックしちゃってください。Unlimited に入ってる方は追加料金なしで、それ以外の方は 300円です。Kindle用の電子書籍です。紙の本ではありません。Amazonで購入したあと、スマートフォンかパソコンにKindleをインストールして読んでください。

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珍獣ららむ〜 の紹介

特技はおりがみとお蚕の飼育と世の中の役にたたないこと全般です。養蚕が普通の仕事だったらニートでヒキコモリの体質から脱出できそうな悪寒がします。DQ10はほぼ引退しました…だってストーリーが完全にソロゲーなんだもの。/ちなみにわたしが珍獣を名乗っているのは1999年からで、イモトよりも古いです。ワンピースは知らん。イモトですねって聞かれるとあっちがマネだと答えたくなる。 twitter などでは chinjuh です。

羊太夫、八束小脛に関する古典の抜き書き への2件のフィードバック

  1. きむらいずみ のコメント:

    記事とは関係ない話でごめんなさい。
    iPhone5の液晶剥がれは内部の電池パックが
    肥大化する事によって起こる現象です。
    うちのもなりました。

    • 珍獣ららむ〜 のコメント:

      あ、すみません。ツイートなので詳細を書かなかったのですが、もとからバッテリーパックが膨らんで液晶が浮いていまして、それをとんとん叩いたので剥がれたというわけです。御心配ありがとうございます!

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