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羊太夫伝説
日本三碑のひとつ
多胡の古碑
 群馬県多野郡吉井町大字池1095
 群馬県高崎市吉井町池1085番地
 合併で住所が変わりました。
 上信越自動車道吉井ICより車で10分
 最寄り駅は上信電鉄吉井駅
 [Yahoo地図で確認]

 羊太夫の実在を匂わせる貴重な資料。多胡碑記念館という博物館の敷地内にある。


  「昔をかたる多胡の古碑」と上毛カルタにうたわれたのがコレ(右の写真)。

 上毛カルタは地元の名所を読み込んだ教育玩具で、正しい群馬県人ならたいていはソラで言えたりします。ええ、もちろんわたくしも覚えましたとも(某市の大会で銅メダルもらったこともある…ちょっと恥)。

 そのせいで、多胡碑は耳になじみの深い名所なのですが、何がどう重要な名所かっていうのはまるっきり知りませんでした。だって、多胡碑の絵札は右の写真のような建物の絵になってて、石碑なのに碑そのものを描かないところが微妙に納得いかないし、テーマがわかりにくいので記憶に残らないのです。

 ところが最近になって、多胡碑には面白い伝説がかかわっている(かもしれない)ことを知り、是非とも実物を見に行きたい、伝説の舞台を見たいのじゃーという思いがわき上がり、かなり衝動的に見に行ってしまいました。

 その伝説というのは、羊太夫(ひつじたゆう)もしくは羊大夫(ひつじたいふ)と呼ばれる超人のお話です。

 ストーリーをかいつまんで説明すると、その人は奈良時代に群馬県の一部を支配していた偉い人で、群馬県から奈良の都まで一日で往復するという荒技を毎日あたりまえの顔をしてこなしていたのだそうです。

 群馬は関東地方の北部にある県ですよ。奈良は関西です。新幹線を使ってもとんぼ返りはキツイのに、羊太夫は名馬・権田栗毛にまたがって、八束小脛という足の速い従者とともに、毎日往復していたそうです。

 こんな不思議な伝説が群馬県にあったなんで、地元で暮らしてる時にはこれっぽっちも聞いたことがなく、東京で暮らすようになってはじめて知るなんて、ああ、わたくしの群馬県ライフはいったいなんだったのか!!

 羊太夫の伝説は別のページに詳しくまとめてありますので、よろしければ下記リンクよりどうそ。

参考>今昔かたりぐさ・羊太夫

参考>羊たちの雄弁・羊太夫 

 
 さて、羊太夫と多胡碑にどんな関係があるかといいますと、そもそも多胡の古碑は奈良時代に作られた石碑です。右上の写真は碑をおさめたお堂で、ガラス窓から覗いてみると、中にほんものの古碑が修められています。碑そのものは撮影禁止でした。

 石碑には漢文で「このあたりの三つの郡から三百戸ずつ集めて新しい郡を作り "羊" に与える」というような短い文章が刻まれています。これとそっくり同じことが『続日本紀』という歴史書にも記されており、当時のことを知る貴重な資料となっているんだそうです。

 問題は「羊」という文字です。
 この文字の解釈はいろいろあるんですが、「半という文字の書き間違い」「群馬総社の方角から見て碑のある吉井町が未(羊)の方角だから」「動物の羊を朝廷から給わったという意味ではないか」など、さまざまに言われているそうです。中でも有力なのは「羊氏という豪族の名前」だという説です。

 『続日本紀』という本に、碑文の内容と同じことが書いてあると言いましたが、残念ながら「羊」という文字はなく、羊氏説を裏付けることはできません。それに、伝説の羊太夫との関連も、いまひとつハッキリしないのですが、よくわからないことも含めてロマンを感じるのですよねー。

 史実はどうかわかりませんが、地元の人はこの碑に刻まれた羊を太夫のことだと信じて、石碑を「羊様」と読んでうやまっていました。多胡碑は牛伏砂岩という壊れやすい石で出来ているので、ちょっとしたことで破損してしまいそうなのですが、太夫の伝説のおかげでとても大事にされ、刻まれた当時とほとんど変わらない姿のまま残されています。

多胡の古碑
多胡の古碑:この建物の中にホンモノの古碑が納められている。石碑そのものは撮影禁止でガラス越しにしか見られない。そっくり同じ大きさに復元したレプリカが多胡碑記念館内にある。
 
多胡の古碑(イラスト)
多胡の古碑(図解):中に納められているのはこんな石碑。四角柱の本体に笠のような石がのっている。高さは 126cm で、吉井町南部に産する牛伏砂岩(通称:多胡石)で出来ている。
 笠の一部に大きな亀裂がある。多胡碑は第二次大戦後に解体され、しばらく後に組み立て直されたが、その時に亀裂の位置を間違えたまま、丁寧に接着してしまったそうで、ホンモノでありながら昔のままではないそうだ。
 
多胡碑の拓本
多胡碑の拓本: 石碑には漢文で「三つの郡から三百戸ずつ集めて新しい郡を作り "羊" に与える」という意味のことが刻まれている。中国の六朝風という書体に似た味わい深い文字とのことだが、正直なところそこらの中学生に書かせたみたいな文字に見える。
 多胡碑は昔から有名で、さまざまな文献に記録が残っているそうです。古い記録とてらしあわせると、現在の多胡碑と一カ所だけ大きく違う点があります。

 多胡碑は笠にあたる部分に亀裂があるのですが、古い記録では亀裂の位置が 90 度ずれているのだそうです。

 多胡碑は第二次大戦後に解体されたことがあるのです。戦争が終わり米軍が日本の美術品や歴史的な資料をかたっぱしからアメリカに持ち去っていた時、碑を奪われることを恐れた地元の人たちが解体して桑畑に埋めてしまいました。

 一年後に掘りかえし、もとの状態にもどしたのですが、うっかり笠を 90 度ずらし、丁寧に固定してしまったのだそうです。

 下手に解体すると壊れる危険があり、今でもずれたまま残されています。残念なことでもあるんですが、町の人たちが石碑を守ろうと桑畑に穴をほってるところを想像すると、心が熱くなるような気もしますね。多胡碑にきざまれた新しい歴史として、とても面白い話だと思いました。

 すでに書いたとおり、本物の石碑はガラス越しにしか見られませんが、すぐ近くにある多胡碑記念館に実物大のレプリカがあり、間近に見ることができます。記念館のガイドの方が無料で説明もしてくれますから、訪れた方はぜひお話を聞いてください。ここに書ききれないほど沢山の話をしてくれましたよ。

[群馬県吉井町の公式サイト] [高崎市の公式サイト]
 多胡碑記念館の入館料や休館日はこちらで調べられます。

 なお、多胡碑については珍獣日記もどうぞ。

参考>2003年7月の珍獣日記 ここの7月8日

参考>2003年9月の珍獣日記 ここの9月18日


羊太夫の妻が自害したところ
七輿山古墳(藤岡市)
 群馬県藤岡市上落合字七輿
 最寄りの駅は上信電鉄西山名駅
 上信越自動車道藤岡ICから車で20分
 [Yahoo地図で確認]

 上信越自動車道藤岡インターから車で20分くらい。ドライブイン七輿の近くだったと思う。三段築成の前方後円墳。かなり大きい!


 羊太夫は超人的な速さで群馬と奈良を往復したと言われてます。ところがある日、ほんのイタズラ心からお供の小脛の脇の下に生える羽を抜いてしまいました。

 すると、どういうわけか小脛は足がおそくなってしまい、太夫も奈良へは行けなくなってしまいました。おそらく太夫の超人的能力は、小脛の力によるものだったのでしょう。

 太夫が急に来なくなったので、都では「羊に謀反の心あり」と大騒ぎになり、ついに帝から羊太夫を討てという命令が下されました。

 戦上手の羊太夫でしたが圧倒的な数の違いには勝てませんでした。城が敵の手に落ち、太夫と小脛は自害して果てます。

 太夫の奥方と息子、六人の侍女たちは、城の東のほうへ落ち延びましたが、敵に追いつめられてやはり自害します。

 この時、奥方たちが乗っていた七つの輿にちなみ、この地を七輿と呼ぶようになったと言われています。

 七輿山というのは自然の山ではなく、七輿にある古墳です。
 前方後円墳というのを知っていますか?前が四角くて、後ろが円くなるように土を盛り上げて作ったお墓です。仁徳天皇陵なんかがこれですよね。

 さすがに仁徳陵ほど大きくはないけど、七輿山はかなり大きな古墳です。
全長 146m 、後円部高さは 16m もあるんです。江戸川区にある富士公園の江戸川富士より大きい…なんて書いても誰もわからないでしょうが、古墳だと知らずに見たら丘だと思うかもしれません。

 古墳の上まで上ってみると、後円部のてっぺんに石の仏像が数体ありました。後円部の下にも、どこかのお寺のお坊さんのお墓らしきものと羅漢像が並んでました(右下の写真)。

 七輿山に葬られているのが誰なのか、残念ながらわかっていないそうです。ただ、昔から羊太夫ゆかりの地だと信じられていたので大事にされ、とても保存状態がいいそうです。

 七輿山古墳からは、円筒埴輪、朝顔型円筒埴輪、人物、馬、盾などの像が出土したということです。造られたのは六世紀前半だと言われています。もしそうなら羊太夫は七世紀の人なので、太夫の奥方が自害した時、ここにはすでに山(古墳)があったということなのかもしれません。 

七輿山
七輿山:ろくな写真がなくてゴメンナサイ。遠くから写せばよさそうなのに近くでシャッターを切るからこんなのしか残ってません。
 関係ないけどここでナナフシ(昆虫)を 3 匹つかまえました。いじくりまわして写真とったあと、もとの場所に放して帰りました。
 
国定史跡の立て札
国指定史跡の立札:三段構造の前方後円墳で…と、古墳の解説が記されている。航空写真と中堤帯埴輪列の写真が添えられている。下に拡大して掲載。
 七輿山航空写真
後円部の下にある仏像:七輿山航空写真:古墳を上から見るとこんな感じ。これを見ると古墳なのは一目瞭然だけど、なんせ大きいから近くで見ちゃうと古墳だと気づかないかも。春に写したものらしく桜が咲いてるのが見える。
 
七輿山古墳中堤帯埴輪列
七輿山古墳中堤帯埴輪列
 
七輿山
後円部の下にある仏像:古墳のすぐ下にあった石仏。古墳に眠る古代人とはあまり関係なさそう。
 

空飛ぶ船の残骸?
東谷の舟石
 群馬県多野郡吉井町大字東谷
 群馬県高崎市吉井町大字東谷
 上信越自動車道吉井ICより車で30分くらい
 [Yahoo地図で確認]

 強いて言えば上信電鉄吉井駅が最寄りだが、山道だし、八束小脛並の俊足でないと歩いてゆくのはキツイと思う。


 船の形をした巨石です。羊太夫が乗ってきた船の残骸だと言われています。

 羊太夫はまったく謎の多い人。伝説では不動明王に祈願して授かった子とされているけれど、船に乗って遠くからやってきたという伝説もあるらしいんです。

 その船の残骸が石となり残ったのが東谷というところにある舟石です。大きさをちゃんと測らなかったのですが、高さが 120 cm くらいかなあ。長さは、たぶん 400 cm くらいで、幅は船尾の部分で 150cm くらい、かなあ(あまり自信はない)。こういうもの見に行くときは巻き尺を持って行かなきゃだめですね。

 船があるなら近くに川があるのかっていうと、あるにはあるんですが、幅の狭い渓谷で、この大きさの船が上ってくるのは無理があると思います。

 この石が本当に船だとしたら空を飛んでくるしかありません。ということは、太夫は宇宙から来た異星人なのかも???

 太夫の伝説でもなければタダの石なんですが、これほど巨大な岩を、誰がどこから切り出して、ここへ運んで転がしたのかと考えると深い秘密がありそうで楽しいです。
 

舟石
舟石:船の形をした巨石。畑の中にさりげなく存在していた。ハッキリ言ってタダの石。
 
舟石
お寺の庭:道路から写した写真。近くに住吉神社という小さなお社があるので、そこを目指してくれば見逃さないと思う。神社とは道を挟んではす向かいの位置関係。
 
東谷渓谷
東谷渓谷
 舟石近くの住吉神社の裏に小さな渓谷。かなり雰囲気のいいところですが、ちょうど天気が悪くてあまりゆっくりできませんでした。残念!
東谷渓谷の不動明王  切り立った崖に不動明王の像が設置されていました。燃える男なのですっ!

 天気わるくて光がたりないせいか、なかなかピントがあわなくて、こんな写真しかとれませんでした。いい男なのにゴメンね、お不動さま。


権田栗毛の倒れた場所?
神馬橋と八束小脛の像
 群馬県多野郡吉井町
 群馬県高崎市吉井町
 羊太夫は立派な馬を持っていました。それは権田村の長者から献上されたもので、体が大きく、耳がピンと立って形よく、風のような速さで駆けたそうです。美しい茶色の馬だったので、権田栗毛と名づけられました。

 太夫が朝廷からうとまれて、城が敵の手に落ちた時、権田栗毛は天子谷というところで絶命し、馬頭観音に変化したということです。

 その場所には現在でも竜馬観世音と八束小脛(太夫の家来)の像が残っていると言うのですが、事前に調べていった住所(馬庭内出の神馬橋近く)ではどうしても見つけられませんでした。

 その時のことを珍獣日記に書いたところ、地元の方が写真を送ってくれました。右に掲載するのはその方が写してくれたものです。
 

お堂
小脛像を納めるお堂:この小さなお堂の中に八束小脛の石像があるらしい。
 
小脛像
小脛像:お堂の中には絵馬がたくさん奉納されている。
 
神馬橋
神馬橋:神馬橋のかかる川は現在では幅 1 メートルくらいの用水路のような小川になっていて、橋も知らずに通ったら気づかないほど小さなもの。

 このページを作製するにあたって下記の本を参考にしました。

多胡の古碑に寄せて増補改訂版
価格:1,260円(税込、送料別)
井上清・長谷川寛見 = 共著
 多胡碑についての詳しい解説「多胡碑二十話」「多胡碑の碑文から考える」(これらは大人向け)と、易しい読み物「羊太夫二十話」を収録。
 残念ながら現在品切れで増刷がかかっていないようです。図書館などを探すともしかするとあるかもしれません。

語り部屋珍獣の館山海経博物誌直前に見たページ