午年がやってきました。予定通りならば、西水元の安福寺の夕顔観音が開帳される年のはず。以前にもいくつか記事を書きましたが、今回は江戸時代の地誌から、飯塚村(現在の葛飾区西水元と南水元の一部)と夕顔観音についての記述をまとめてみたいと思います。
西水元安福寺の夕顔観音について、当サイト内の過去の記事
◎今年は西水元安福寺の夕顔観音の御開帳があるはず – 2014年
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1767
◎葛飾区の夕顔観音:12年に1度の御開帳を見に行った話 - 2014年
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1772
◎夕顔観音の石碑(葛飾区西水元) – 2016年
http://www.chinjuh.mydns.jp/wp/20161012p5731
江戸時代の地誌から抜き書き
以下、リンク先はみんなで翻刻といって、くずし字で書かれた古い資料を誰でも読める現代の文字に置き換える作業(翻刻といいます)をするサイトになってます。原典と翻刻文を並べて読む事ができます(スマホで読む場合は画面を横長にして見るのがオススメです)。
というわけで、原文はリンク先でお読み頂くとして、ここでは要点を箇条書きにしていきます。
四神地名録
https://app.honkoku.org/transcription/df51af5d8a528fdba2597fc31f2c5417/16
【ふりがな:ししんちめいろく/しじんちめいろく】
【別書名:四時遊観録(しじゆうかんろく)】
【著者:古川辰(ふるかわしん)=古川正辰(ふるかわまさとき)=古松軒(こしょうけん)】
【出版:寛政六年 1794】
- 飯塚村に夕顔観音というものがあるそうだ。源氏物語の夕顔に因んだものだろうか?(詳細はわからないが)いずれにせよ故あるものだろうと、この村に立ち寄ることにした。
- 老木が生い茂る中を行くと、感じのいい草庵(草葺きの小さな建物で、ここでは小さな寺のこと)があった。
- 庵には住僧もいないので村人に尋ねると、このお堂はいつ出来たものかはわからないが非常に古く、数百年前に名主の先祖が造ったもので、今は名主が隠居所として使っている、という。
- この庵の仏像は、紫式部が秘蔵したもので、自然金で鋳造した観音像とのこと。
- その夜は名主の家に泊めてもらったが、名主の説明も村人の話とほとんど同じだった。
- この名主は関口氏といい、かつては豊かな暮らしをしていたという。
- この家に伝わる刀箱や鑓などはそうとう古いものだった。弓矢があるというのでみせてもらうと、見たこともない形状のものだった。矢には鉄製で半月型の鏃がついている。弓は四尺八寸余りで上端が欠けて失われている。藤(とう)を糸のようにして巻き、漆でとめてある。
このあとに弓の長さについての考察が続きますが、その大意は「古代の弓のように短いが、古代の弓は丸木の弓なのにこれは違うので、それほど古いものでもない。しかし、長く続いた家系ゆえ古代の様式を自然に伝えたものだろう」というような事だと思われます。
半月型の鏃についても短めの考察があり、月剣というものを応用して造ったのではないか、と書いてあります。
四神社閣記
https://app.honkoku.org/transcription/d5ff6f4f7382b0c23d2b90c9e0a24a74/8
【ふりがな:しじんじゃかくき】
【別書名:四時遊観録(しじゆうかんろく)】
【著者:池田定常=松平冠山=冕嶠陳人】
【成立:江戸時代中期〜後期】
この本の著者は若桜藩(わかさはん)の藩主、小大名とは言えお殿様だった人です。この本がいつ書かれたかはわからないのですが、著者は1767年生まれで1833年に亡くなっていますので、『四神地名録』と同時期かそれよりあとで、『江戸名所図会』よりは古いはずです。
飯塚村については記述が少ないものの、当時の名主の名前や、夕顔観音堂の大さ、掲げられていた額のことなどが書かれています。
- 飯塚村、江戸から三里三十町(約15km)。
- 観音堂は五間(約9m)四方、茅葺き。
- お堂に「能救世間苦」と書かれた額があり「願主奥田氏」と書かれている。
- 別当はなく、名主・関口早太郎の所有で、堂守を置いていた。
- 観音堂は村岡五郎良文の墓所の跡だと言われている。
江戸名所図会
https://app.honkoku.org/transcription/6833A3198946B63897C0F95AE482A057/4
【ふりがな:えどめいしょずえ】
【著者:斎藤松濤軒、斎藤月岑=松濤軒】
【画:長谷川雪旦】
【板元:日本橋・須原屋茂兵衛、浅草・須原屋伊八】
【成立:天保七年春 1836】
飯塚村のこと
- 飯塚村は新宿(にいじゅく)の渡し口から半道(約2km)西北、中川沿いにある。
- この地はその昔、荘官の関口何某が治めた地だと言い伝えられている。関口氏により熊野権現や水神の社が創建され、それは今(天保七年春、1836年現在)も残っている。
- 『江戸砂子』には平良文(岡本五郎)の墳墓の跡だとあるが、根拠のない話である。
- 村には夕顔観音と呼ばれる金の観音像があるが、普段は厨子におさめられており、拝する事はできない。厨子の前には慈覚大師手刻の木像が安置されている。
『江戸砂子』にも出てくると書いてあるので探してるんですが、残念ながら今のところ発見できていません。
二本の老木と夕顔観音の出土
- 社の前に老松と榎樹が並び立っている。この木は春夏に葉が枯れてしまい、逆に秋冬に緑濃くなるというので人々に不思議がられている。
- また、時として木の間が光り、竜灯(火の玉)が梢にかかるなどの出来事があった。
- 寛文八年(1668年)関口氏と地元の医師である熊谷氏が相談し、木の下を掘ってみたところ、数点の仏具が出たので、同年六月六日にさらに掘ったところ大悲の像(観音像)が出土した。
- この像は金の聖観世音で背丈が五寸ばかり(約15cm)である。姿形が美しく威厳があり、並の職人の手によるものではないと感じられた。
- 観音像は熊谷氏の家の仏壇に仮安置されるが、熊谷夫妻が揃って夢に神仏のお告げを受けるなどしたので、新たにこの地を開墾して草堂を作り、観音像を安置する事となった。
- 世の中で夕顔観音と呼ばれるものは、 瓠瓜(こか、ヒョウタンの事)の中から出現したとか、紫式部の持念仏だとされるものだが、この地の縁起では違っている。何をもって夕顔観音と呼ばれるのか不明である。
深谷氏のこと
- 深谷氏は紀州の生まれで名前は喜兵衛。医師。寛文の頃に七十歳、飯塚村在住。
- 妻があり、年は同じくらい。
- 二人とも信仰にあつく、日蓮の弘法(ぐほう)に帰依し、日々おこたりなく法華経のお題目を唱えていた。
▲夕顔観音堂 江戸名所図会より
夕顔観音の像は、今は葛飾区西水元の安福寺に安置されているのですが、明治の初めごろまで名主だった関口氏の家の近くにあった観音堂に納められていたそうです。この絵は今はない観音堂の絵です。
というわけで、飯塚村と夕顔観音について、江戸時代の地誌にどんな事が書いてあるかまとめてみました。
夕顔観音と呼ばれる仏像は各地にあるみたいなんですが、千葉県香取市の樹林寺の伝説が有名です。
平良文(=村岡五郎)は生前夕顔をこよなく愛し、この世を去る時、枕元に息子を呼んで「もし父に会いたくなったら畑に夕顔の種を蒔いて、その実を割ってみるがいい」と言い残します。息子がその通りにしてみると、中から観音像が出てきた、という話です。
『四神社閣記』では夕顔観音堂は平良文の墓所の跡地だという説にふれてますが、樹林寺の伝説と混ざって言い伝えられているんだと思います。
紫式部の持念仏だったというのも根拠があるわけではなく、『江戸名所図会』では「何の故に夕顔の称あるにや其よる所をしらす」と書いています。
いずれにせよとても古い仏様です。普段は秘仏とされていますが、12年に一度の午年の4月に公開されることになってます。正式に何日から何日までなのかは、ちょっとわからないのですけど(と、12年前にも書いたような気がする)、時々お寺の前を通りがかるなどしてみたいと思います。
安福寺
葛飾区西水元1-7-19