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昨日と今日出会った #ゆるキャラ さんたち:おーちゃん、たか丸くん

青梅市のおーちゃん

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▲青梅市:澤乃井の蔵開きイベントにて 2014年10月25日

 福祉関係のキャラで青梅市(おうめし)だからおーちゃんだって言ってた。アルファベットのOのように丸くてかわいらしい。しかし、福祉をアピールしきってないところがいかん。もっと全身で福祉をアピールしちゃってほしい。

http://www.omeshakyo.jp/
↑ここのキャラなんだけど「おーちゃんの秘密」っていうリンクをクリックしてもそれらしいページにたどり着かない。きっと誰にも知られたくない秘密なんだろう。

弘前市のたか丸くん

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▲お台場:モータースポーツジャパン2014にて 2014年10月26日

 通りすがりに写したのでどこのキャラかわからず、猛禽っぽくてくちばしが黒いので、ハヤブサかなあ、タカかなあって言いながら探したら弘前市のたか丸くんだった。

◎プロフィール:たか丸くん
http://www.city.hirosaki.aomori.jp/takamarukun/profile/index.html
 好物のいがめんちは、イカゲソを叩いてミンチにしたのに野菜や小麦粉を混ぜて丸めて揚げたものだそうです。美味しそう!

タグ:ゆるキャラ

鸚鵡籠中記からの抜き書き


 画像は楽天ブックスへのリンクになっています。
 以下はこの本からメモしたもの。

水戸黄門は普段どんなかっこをしていたか

元禄七年四月二十四日

・市部猪右衛門という者が、水戸で黄門様に会う
・水戸の屋敷は玄関が広く六畳もあった

・黄門様は「髪耳の内より剃り、半かうにして髪長く尺に余る」という状態だった。
# これについて「髭が長かった」」という編註が付いているが、何度読み直しても「髪」としか書かれていないのが謎である。
# 「半かう」は「半髪」で、頭の前半分を剃って後ろだけ残す髪形。それを長く伸ばして 30cm 以上にもなるのを、結いもせずにざんばらにしていた、ということだと思うんだけど。

・二尺余りの脇指にはなはだ大きな金鍔を打って、浅黄の衣服に広袖にして、その袖口に大きな真紅の房を付けていた。

# 広袖は、今の着物のように袖口を小さくしないで、平安時代の着物みたいに袖口を広いままにしてある着物のこと。着物を小袖というのは広袖に対して袖口を小さくしてあるから、だと聞いたことがある(うろおぼえ)

・その奇抜なヘアスタイル、奇抜なファッションセンスのまま、公方様(綱吉)にご機嫌伺いに行って老中に追い返されそうになったという話も。

生類憐れみ令と庶民の反応

元禄八年二月十日

・江戸千住街路に犬二匹が磔にされており「此の犬公方の威をかり、諸人を悩ますによってかくのごとく行うものなり」と立て札があった。
・浅草のあたりに犬の生首がさらし者にされていた。

同年四月八日

・江戸にて寺尾弥右衛門の足軽が犬を切って公儀の牢に入れられた。弥右衛門(足軽の上司?)は閉門という処分を受けた。 #閉門=屋敷の門を閉ざして出入りを禁じる刑罰。

同年十月十九日

・江戸中野に犬屋敷ができる。ここで犬に奉仕する者が毎日二万人、そのため駄賃馬が足りなくなり、ものの輸送費が高騰した。
・この年の春、犬を磔にしたものがあり、旗本の次男だった。その下僕が訴え出て切腹を仰せ付けられた。下僕には定めのとおり黄金二十枚と六間口の角屋敷を与えたが、一ヶ月御に召し出されて成敗された。あるいは磔とも。

元禄九年六月十二日

・「中野の犬小屋」に、毎日五十、三十ずつ犬を収容している。犬の餌は一日五十俵。

元禄十五年四月十九日

・長久寺筋に捨て子があったが、野犬に食い殺された。

同年五月二十六日

・馬が難儀しないように馬の様子にあわせて荷物の分量を考えなさい、というお触れがあった。

同年九月十三日

・江戸の赤坂で、二百石の御馬医である橋本権之助けが、自分の家の鴨を、となりの犬に食い殺されたことに腹をたてて、犬を斬り殺した。そのため切腹を仰せ付けられた。

大地震(関東中部大地震)元禄地震

元禄十六年十一月二十二日

・丑ノ二点、地震あり、長く揺れる。余震あり。
・母親の様子をみにいくと、庭の池の氷が割れ、水が逆揚がっていた(ゆれて水が池から跳ね上がったということ)。
・十八年前の八月十六日辰ノ刻の地震より長く揺れた。
・丑半刻、遠くひびきの音が聞こえる。光り物が飛んだという。明け方まで三度余震があった。寺の仁王像が倒れて足が壊れた。

・同じころ江戸も揺れた。御城内外の多くの門が壊れた。
・土蔵が壊れ、穴蔵から水が沸き出した。
・壊れなかった建物がないくらいで、人馬が多く犠牲になった。

・各地の海で日に何度も満ち潮があったという。津波の記録も。

・江戸ではあちこちで火事があったが、大火にならずに消し止められた。

・海上に波が燃え走る怪現象が目撃された。

# この先さらに地震の被害について記述あり。神奈川の小田原で大きな被害があったようだ。また、十二月の日付で余震が続いていることも記録されている。

大地震2(関西中部大地震)宝永地震

宝永四年十月四日

・朝東北に薄赤い立ち雲が多く見えた。夏の夕立雲のようなものだ。
・寺で法事の後夕食。未の一点、地震。
・揺れが大きく鎮まらないのでみな申し合わせて庭に飛び出した。多くの者は裸足だった。
・大木が揺れて大風が吹いたようだった。
・揺れがひどくて歩けないほどだった。
・石塔が倒れる音がした。
・江戸ではあまり揺れなかったようだ。
・大阪方面でおおく被害者があった。
・郭の亭主は遊女がどさくさにまぎれて逃げないよう蔵に縛りつけて監禁した。そのせいで多くの遊女が死んだ。

天体

元禄十七年五月十六日

・丑寅の間、月食九分。雨天で見えなかった。

同年十一月一日

・「日食九分、申の初刻、西の方にかけ初め、申の刻食甚。日入半帯食。西国にては復して入るべし」

同十五日

・月帯食四分、酉ノ時。

伊勢参宮にまつわる怪異

宝永二年閏四月二十日

・数十里離れたところから二三日で(伊勢まで)往復した。
・死んで葬式もあげた人が、ひょっこり伊勢から帰ってきた。
・子供が夢うつつで白馬に出会い、これに乗って参詣した。
・婦人が参宮の途中で月のものに汚れ、宮川で(みそぎ中に?)溺れて流れてしまったが、連れのものが帰りに見ると、溺れて流されたと思った婦人が岩の上に何事もなく立っていた。

・などという噂がおおくささやかれ、伊勢に参る人がおびただしい数になった。「大神宮利生記」という書が出版されて、このような神異が多く記述されているという。

富士山の爆発

宝永四年十一月二十三日

・戌、大いに鳴る(地鳴り?)。夜少し揺れる。雷が遠く聞こえたと言う。
・小田原に宿した者が言うには、夜中雷が強く、地震がやまず、富士山と足高山の間、十間余りが燃え、炎が二丈ばかり登った。石が焼けて甚だしく飛び散ったという。
・飛脚の話によれば、二十三日昼ごろ、江戸近辺を黒雲が覆い、闇のようだった。灰砂が降った。二十四日の未ノ上刻に、小田原に到着したところ、富士山が焼けて、五六匁から十匁くらいの小石が降った。黒雲が覆い、道筋は見えず、行きも帰りもできないのでその場に逗留し、本陣より「通路なき」の手形をとって国元に帰ったという。

・噴火は江戸にも影響があった。雪のように灰が降り、鎌倉砂のようなものが降り注いだ。たびたび地震のようなものがあったようだ。
・奥州より来たものが、江戸より八里東で砂が降ったことを証言する。

# どうやら揺れたり、灰が降ったりという状態では、富士山が見えなくなってしまうので、なぜこの状態になっているか最初はわからなかったようだ。富士山に近い地域の者が、噴火を見て伝えたのが次第に知れ渡ったようだ。

・十二月八日に噴火がとまる。
・富士山と足高山の間に新しい山ができた。「大いさ尾州の小牧山ほどあり、小富士と称すべからず、宝永山と称すべきという」

# 翌年の日付で噴火の灰を片づけが問題になっている様子も見られる。市中ばかりでなく、農村部でも、農民が各自でやれないほど積もったケースがあるようだ。

異人

宝永五年十月二日

・屋久島に異人が現れる
・鼻筋高く、色の白い大男が、髪を月代にして日本人のようないでたちでいるのを炭焼きの男がみつける。
・役人が取り調べたが、言葉が通じなかった。
・八月に異国船がやってきて、すぐに立ち去ったという事件があったので、その時に小舟で上陸したのだろう、ということになった。
・長崎奉行所に届け出た。

奇祭:おやり祭り

・疹が流行したので、奉行に届け出た上で、先例にならって「おやり祭り」をとりおこなった。
・八・九寸の陰茎を、竹で枠組みを作って紙で張りぼてにして、「おやせ、おやせ」と囃す。「おやり」は「追いやれ」の略で「おやせ」もそれが転じたものだ。だんだん町より出す。# 町から疫病を張りぼての陰茎で負い出すのだろうか。
・あるいは竹で五聞ばかりの男の人形を作り、二間もの長い陰茎をつける。人形の頭に人が乗って、陰茎を紐で引いてヒョクヒョクと揺らす。それを人が見て大騒ぎする。

# 「聞」という単位がよくわからない。尋(ひろ)か、もしくは間(けん)のことだろうか。直後の陰茎の長さは間(けん)になってる。尋でも間でも1.8mくらいなので、背丈が 9m で陰茎の長さが 3.6m といったところだろうか。

・おやり焼き場で人形や陰茎を焼く。その日は一両日消えないので、火消し役人が見張っている。

桐生:織物参考館・紫(ゆかり)

 「桐生は日本の機どころ」というのは上毛かるたの「き」の札です。上毛かるたは群馬の良い子だったらたいてい言えるんです。

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▲桐生市のマンホールにも反物がデザインされてる。まわりは市花のサルビアで、歯車は桐生で盛んな機械金属産業のシンボルだそうです。

 わたしは趣味でお蚕を飼うので、機織りにも興味があります。それで、せっかく群馬に行くなら養蚕か機織り関係の博物館はないのかと思い、検索してみつけたのがここ。

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▲織物参考館・紫(ゆかり)
公式サイト:http://www.morihide.co.jp/yukariNEW/indexYK.html

 ここは現在も稼働中の森秀織物という工場がやってる私設の博物館だそうです。

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▲これが展示室。写真とってもいいですかって許可もらいました。

 展示室は昔の工場の建物をそのまま使っているようです。昔の工場の屋根はのこぎりの刃みたいにギザギザしてますよね。

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▲屋根を外から見たところ。屋根の南側がなだらかな斜面で、北側が急になっているので、のこぎりの刃のように見える。

 なんでこういう作りになってるかっていうと、機織りの機械はものすごい音なので、天井板を貼らず、ギザギザ屋根をそのままにしておくことで、音をやわらげる効果があるんだそうです。

 それともうひとつ、採光の役割もあります。

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▲北側の急な屋根に窓がついてる。

 窓は必ず北側につけるそうです。南側だと直射日光が入ってしまい、布が色あせてしまうし、強過ぎる光では、かえって細かい作業がしにくいからだそうです。北側の窓は一日中やわらかい光がさすので丁度いいとのこと。台所を北側に作る家が多いのと同じ理屈かもしれないですね。こういう工場の作りはイギリスから来たものだそうです。

 展示室には古い機織りの機械が沢山ありました。明治中期の、幅が3メートル(うろおぼえ)くらいある、巨大な高機はすごかった。明治のものなので当然電化なんかされていなくて、操作は人がするんです。でも幅が異常に広いので、女工さんが三人で織ったそうです。真ん中の人が足で綜絖(そうこう)を操作して、両端の人が杼を通すらしいですよ。縦糸に細い絹糸を2万本とか言ってたと思います。織った布は欧米に輸出されて、夜会用のドレスになったそうです。公式サイトの写真はこれ>http://www.morihide.co.jp/yukariNEW/yukariphoto/15.html

 それに古いジャカード織り機も面白い。模様を織り込むための機械で、フランスで発明されたものなんですが、穴の開いたシートを使って縦糸を制御するらしいです。発明者はオルゴールをヒントにしたとか。>http://www.morihide.co.jp/yukariNEW/yukariphoto/14.html

 ジャカードもすごいんですが、それを古代中国では人間が上からひっぱることで同じような模様織りを実現してそうなんです。それが日本にも伝わって、正倉院にはそういう布が現存してるそうです。その、上からひっぱる式の機織り機なんかも展示されてて、私設の博物館とは思えない熱さがありますね。館の人の説明もすごく面白かったです。

 こちらの会社は機織りが専門で染色はやってなかったそうですが、今は見学者用に藍染め体験も定期的にやってるそうです。布を持ち込んで染めさせてもらうことも可能とか。

 場所はJR桐生駅から徒歩で15分くらい。入館料は大人 700円。

タグ:群馬 桐生市

岩宿の遺跡のことを語りまくってみるよ

 えー、語るといいましても、わたくしの語りはくだらない思いで話ばっかりです。古代史についての熱い語りではないので念のため。

 わたしはゆとり世代よりずっと前の年齢で、詰め込み教育はイクナイとか言われていた時代なんですが、小中学校の授業を思い出すと、どのへんが詰め込みなのかよくわかんないくらい、先生が無駄話をしてた。おかげで高校受験の時なんか、この部分を授業でやった時、先生がどんな冗談を言ったかまで思い出してしまうほどでしたよ。

 中でも思い出すのは小学三年生の時の担任の先生である。女性で年齢はよくわからないけれど、定年間近だったかもしれない。地元に長く住んでいるらしく、群馬県内の話をよくしていた。

 が、その話のほとんどが噂話のレベルで、いちいち面白いんだけど、常に何かとまざっていて、どこまで正確なんだかわからない。

 例えばどんな風かって言うと、社会科見学の前に聞かされた話に「三共電器(今のサンデン)は三人の兄弟がはじめた会社だからサンキョウ」というのがある。大人になってから思い出して、サンデンのサイトを見に行ったけど、会社の歴史を紹介するページを見ても、そんな話はさっぱり書かれていない。

 峠のかまめしで有名なおぎのやは、物のない時代におかみさんが自ら山で山菜をとり、釜飯にして売ったのが話題になったっていうのもある。これは遠足の前に聞かされた。陶器の釜に弁当を入れるアイデアが女性の発案だというのは本当みたいだけど、山菜のくだりとかがそうとう怪しい。

 そして今回語りたいのは岩宿の遺跡についてだ。

 その先生が社会科の授業で言ってた話を思い出して箇条書きにしてみる。

・日本には石器時代がなかったと言われていた。縄文時代によそから人がやってきて住み着いたのが最初の新しい国だと思われていた。

・ところが桐生の岩宿というところで石器がみつかった。

・それを発見したのは「あいざわちゅーよー」さんで、本当の名前は忠洋(ただひろ)だけど、昔の人はみんな音読みでちゅーよーさんと呼んでいる。

・彼は学者でもなんでもなくて、勉強しながら働いている貧しい若者だった。

・仕事に行くのに毎日通る道端に、どうも自然のものではないものが落ちている。道行く人たちは、誰一人そんなものには目もくれないが、ちゅーよーさんだけは「これは貴重なものに違いない」と考えて、東京の偉い学者に見てもらった。

・それが原始人が使った道具だとわかり、日本にも石器時代があったことが確かめられた。

・貧しくとも勉強をつづけていたからこそ大事なものに気がついたのだから、人は勉強しなくちゃいけない。

・原始人は岩が張り出した崖下に身を寄せ合って住んでいたはずだ。そういう崖があるからそのあたりを岩宿というのである。←このへんがそうとう怪しい。


 …という話を、それは自慢げに、繰り返し聞かされた。

 たしかに学者でもない若者が、仕事の行き帰りに世紀の大発見をするなんて話は今聞いてもワクワクする。それが苦学生だったりすると、貧しさに泣いた昔の人ならなおさら胸熱だったに違いない。

 「日本にも石器時代があった」というのも昔の人のハートをわしづかみにしたポイントだ。日本がぽっと出の新しい国みたいに言われるのが屈辱的だったんだと思う。

 いや、縄文時代は十分古くて、ちっとも新しくはない。しかし、何かと言えば欧米に劣ると思い込んで暮らしていた世代にとっては、この国には原始時代もないのかよ、みたいなガッカリ感があったのかもしれない。

 そんなこんなで、先生の無駄話によって、わたしの頭の中では、岩宿というのは道端に原始人が暮らしていた崖のあるところ、苦学生偉い、旧石器時代バンザーイみたいなストーリーができあがっている。

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▲超想像・岩宿遺跡:こんなところを想像していた。池沿いの小道、原始人が住んでた張り出した崖、チューヨーさんは腰に手ぬぐい。なぜ池沿いだと思ったのかは自分でも謎。


 実際の岩宿遺跡がどんなところかっていうと…

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▲すっかり整備されてこんな感じ。っていうかコントラスト強過ぎて、これじゃ様子がわかんないですね、はいはいすみません。そんなに高くない丘沿いに石碑があるだけです。

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▲発掘当時の写真だそうですが……光って見づらい。ですよねえ。でも天気良かったんだもん、どう撮影してもこうなっちゃうんだったら。

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▲岩宿博物館:めちゃくちゃ立派な施設だった。この施設の向こうに池はほんとにあった。博物館には石器が沢山あったけれど、沢山あるだけ、かもしれないです。建物のわりに展示が地味でわかりにくい、かもね。ごめん嘘のつけない体質で。

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▲岩石ドーム:崖から地層をはがして保存してるところ。穴蔵みたいになってるのはただのデザインだと思うたぶん。



 …と、まあ、こんな感じでした。博物館ができたのが20年くらい前だそうなので、その頃かなり整備されちゃったようです。それ以前の様子はよくわからないけれど、少なくとも「原始人が暮らしてた崖」は妄想以外の何ものでもないと思われます。

 だって、チューヨーさんが発見した石器が旧石器時代のものだと判明したのは、関東ローム層の古い地層から出てきたからであって、剥き出しの崖下に転がってるわけないですし。先生が言ってた崖っていうのは、発掘現場の写真からの想像じゃないかと思います。

 岩宿という地名の由来はわかんないけど、石器が発見される前から岩宿だったんじゃないでしょうか(笑)


 岩宿遺跡、岩宿博物館、岩石ドームは、それぞれすぐ近くにあり、いっぺんに回れます。JR岩宿駅から徒歩で20分くらい。岩石ドームと岩宿遺跡は無料で見られます。博物館は大人300円。

 ちなみに、相沢忠洋さんの記念館が岩宿博物館とは別の場所にあるみたいです。苦学生偉いに洗脳されてるわたしとしては、そっちを見てみたいです。みなさん、チューヨーさんみたいに社会に出てからも勉強をわすれずに、会社の行き帰りに大発見して有名になってくださいね。

タグ:群馬

コメント一覧

武邑くしひ (10/23 11:33) 編集・削除

わたしとチューヨーさんとの出会ひは、小学校のころ買はされてゐた、いまでいふディアゴスティーニのシリーズみたいな「わたしたちの歴史」の、どの巻だつたかに載つてゐた岩宿遺跡発見のエピソードを書いたものでした。いまでも念頭を去らないその挿し絵は、(新聞配達の?)自転車を押したチューヨーさんが、切り通しの崖を観察して居るといふものでした。私自身は、通つてゐた附属小学校に隣接する大学構内の水道工事の際に、大量の弥生式土器が棄てられてゐるのを帰りみちに発見し、土器収集に熱中したことがあり、チューヨーさんに勝手に親しみを感じて居たのかもしれません。gabotyan

珍獣ららむ〜 (10/23 12:06) 編集・削除

岩宿遺跡の石碑があるところは、今だと道路に分断されているけれど、もとは琴平山の一部だったかもしれないので、昔は切り通しの崖だったかもしれないです。弥生式土器が捨てられてるところに行き合うなんて羨まし過ぎますね! gabotyan

武邑くしひ (10/23 12:35) 編集・削除

いまでも、鹿児島大学構内を歩いて、道端の石ころを観察すると、竹の節で水玉模様をスタンプした土器片だつたり、表面に朱が残つてゐる高杯のカケラの筈です。ちやんと発掘すれば、登呂遺跡なみの大集落なのだらうけど、いまさらだれも言ひだせないんでせうね。オマケに、さいきん大学構内の土堤で生きたタランチュラが捕獲されたので土器の観察も注意が必要です。gabotyan

金町〜桐生(群馬県)日帰り鈍行列車の旅  #秋の乗り放題パス

 秋の乗り放題パスの 3日目(最終日)。青春18きっぷと違って 3日連続で使わなきゃいけないのが少しきつくて、3日目は近いところをゆるくまわることにしました。

旅行日 2014年10月18日(土) 日帰り
金町〜岩宿(群馬県)〜桐生(群馬県)〜水戸を経由〜金町

目的 岩宿と桐生で博物館を見ること

 ほんとはもっともっと近場でぐるぐるしようかなあとも思ったんですが、都内からだと休日お出かけパスというものが毎週末に使えるんです。それで高崎線だと神保原まで、宇都宮線経由で足利までは行けてしまうので、あんまり近過ぎるとせっかくの全線乗り放題の有り難みを感じないですよね。

 というわけで、休日お出かけパスの範囲のぎりぎり外側へ行くことにしました。

往路

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 7:23上野発の高崎線は低いホームから出発するのでちょっと懐かしい感じでした。わたしの子供の頃には高崎線が全部低いホームから出てたと思うんです。高いホームに発着するようになってから、長距離感が薄くなって(もともと中距離電車なんでしょうけど)かなり寂しいです。やっぱり上野駅は低いホームが萌えますよねー。

 高崎駅で両毛線に乗り換えるんですが、30分くらい待ち時間があったので、改札を出て駅ビルのお土産屋さんを見たりしました。

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 両毛線で岩宿(いわじゅく)へ。岩宿はマイミクさんからはさっそく返信がついてましたが、群馬では有名な遺跡がある場所です。県外でもある程度年齢の高い人だと知ってるかもしれないです。

 たしか、日本に人が住むようになったのは縄文時代からで、それ以前は火山活動が激しくて住めなかったと言われてたそうです。ところが群馬の岩宿というところで旧石器時代の石器が発見されたことで古代史の常識が塗り替えられるんです。

 しかも、その大発見をしたのが学者ではなく、一般の若者だっていうので当時の人たちにとってはそうとう心躍る出来事だったみたいで、小学校の先生からさんざん聞かされたものです。

 20年くらい前に遺跡の近くに博物館ができたそうなので、今回はそこを見に行きました。詳しくは別の記事にします(ってここまで書いておいて?!いや、写真の5枚制限が面倒くさいんです。はやくブログツールを新しくしたい…orz)。# 書いたよ↓

◎岩宿の遺跡のことを語りまくってみるよ
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1827



 岩宿の次は桐生へ移動します。

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 「桐生は日本の機どころ」と上毛かるたに詠まれた桐生市です。ここでは、織物参考館・紫(ゆかり)という、桐生に昔からある織物の会社がやっている博物館を見ました。

 ここが以外と楽しかったです。ただ展示してあるだけでなく、館の人が説明をしてくれまして、貴重な古い機織りの道具なんかを間近で見せてくれたりします。養蚕関係の道具もちょっと展示されてました(専門は機織りなので、養蚕用具は参考程度に置いてるだけみたいですが、にもかかわらず下手な郷土資料館なんかより沢山あったりする、すごい)。

 これも写真がちょっとだけあるので別の記事に書きます書きました。↓

◎桐生:織物参考館・紫(ゆかり)
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1828

帰路

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 もっとゆっくりしてても良かったんですが、14:57桐生発の下りに乗れそうだと気づいて、水戸線経由で帰ることにしました。この時間なら黄昏の水戸線を楽しめそうだったので。

 両毛線の富田と佐野の間、下り方向だと右側の車窓から西部劇に出てくるような建物が半円形に並んでいる場所が見えました。建物の裏側は何もなくて、ほんとうに撮影用のセットだとわかります。

 帰宅後に調べたら『バンクーバーの朝日』という映画で使ったものでした。

◎バンクーバーの朝日(公式サイト)
http://www.vancouver-asahi.jp/
 まさにこれ。トップページの背景になってる街並みが両毛線の車窓から見えるんですよ。12月封切りだそうですから撮影はもう終わってるんでしょうけど。


 両毛線の上り電車が何かの理由で遅れていて、岩舟駅で8分くらい止まり、小山駅には10分遅れくらいで到着しました。小山は昔、遊園地があった頃に何度か来ています。新幹線が通ってからは初めてです。大きな駅になりましたねえ。

 お昼を食べてないので食事したかったんですが、10分送れてる上に不慣れなもので、吉野家の存在に気づいた時にはもう時間がなくて、仕方ないのでコンビニでおにぎり買って水戸線に乗り換えました。

 ツイートもしましたが、水戸線は過去に一度だけ乗ったことがあるはずです。つくば科学万博の時に、伊勢崎から水戸線と関東鉄道常線道経由で水街道まで行き、そこからバスに乗りました。万博は懐かしいけど、電車の記憶がほとんどないです(笑)

 そんなこんなで久しぶりなのに初めてみたいな水戸線は、くれなずむ田園と山々が美しくて、なかなかいい感じでした。

 友部で常磐線に乗り換える予定だったのですが、うっかり降りそびれて水戸まで行ってしまいましたが、20時前には金町に到着。予定通りゆるく帰宅できました。

この日のツイートはこちら

http://twilog.org/chinjuh/date-141018

タグ:秋の乗り放題パス 群馬