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鸚鵡籠中記からの抜き書き


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 以下はこの本からメモしたもの。

水戸黄門は普段どんなかっこをしていたか

元禄七年四月二十四日

・市部猪右衛門という者が、水戸で黄門様に会う
・水戸の屋敷は玄関が広く六畳もあった

・黄門様は「髪耳の内より剃り、半かうにして髪長く尺に余る」という状態だった。
# これについて「髭が長かった」」という編註が付いているが、何度読み直しても「髪」としか書かれていないのが謎である。
# 「半かう」は「半髪」で、頭の前半分を剃って後ろだけ残す髪形。それを長く伸ばして 30cm 以上にもなるのを、結いもせずにざんばらにしていた、ということだと思うんだけど。

・二尺余りの脇指にはなはだ大きな金鍔を打って、浅黄の衣服に広袖にして、その袖口に大きな真紅の房を付けていた。

# 広袖は、今の着物のように袖口を小さくしないで、平安時代の着物みたいに袖口を広いままにしてある着物のこと。着物を小袖というのは広袖に対して袖口を小さくしてあるから、だと聞いたことがある(うろおぼえ)

・その奇抜なヘアスタイル、奇抜なファッションセンスのまま、公方様(綱吉)にご機嫌伺いに行って老中に追い返されそうになったという話も。

生類憐れみ令と庶民の反応

元禄八年二月十日

・江戸千住街路に犬二匹が磔にされており「此の犬公方の威をかり、諸人を悩ますによってかくのごとく行うものなり」と立て札があった。
・浅草のあたりに犬の生首がさらし者にされていた。

同年四月八日

・江戸にて寺尾弥右衛門の足軽が犬を切って公儀の牢に入れられた。弥右衛門(足軽の上司?)は閉門という処分を受けた。 #閉門=屋敷の門を閉ざして出入りを禁じる刑罰。

同年十月十九日

・江戸中野に犬屋敷ができる。ここで犬に奉仕する者が毎日二万人、そのため駄賃馬が足りなくなり、ものの輸送費が高騰した。
・この年の春、犬を磔にしたものがあり、旗本の次男だった。その下僕が訴え出て切腹を仰せ付けられた。下僕には定めのとおり黄金二十枚と六間口の角屋敷を与えたが、一ヶ月御に召し出されて成敗された。あるいは磔とも。

元禄九年六月十二日

・「中野の犬小屋」に、毎日五十、三十ずつ犬を収容している。犬の餌は一日五十俵。

元禄十五年四月十九日

・長久寺筋に捨て子があったが、野犬に食い殺された。

同年五月二十六日

・馬が難儀しないように馬の様子にあわせて荷物の分量を考えなさい、というお触れがあった。

同年九月十三日

・江戸の赤坂で、二百石の御馬医である橋本権之助けが、自分の家の鴨を、となりの犬に食い殺されたことに腹をたてて、犬を斬り殺した。そのため切腹を仰せ付けられた。

大地震(関東中部大地震)元禄地震

元禄十六年十一月二十二日

・丑ノ二点、地震あり、長く揺れる。余震あり。
・母親の様子をみにいくと、庭の池の氷が割れ、水が逆揚がっていた(ゆれて水が池から跳ね上がったということ)。
・十八年前の八月十六日辰ノ刻の地震より長く揺れた。
・丑半刻、遠くひびきの音が聞こえる。光り物が飛んだという。明け方まで三度余震があった。寺の仁王像が倒れて足が壊れた。

・同じころ江戸も揺れた。御城内外の多くの門が壊れた。
・土蔵が壊れ、穴蔵から水が沸き出した。
・壊れなかった建物がないくらいで、人馬が多く犠牲になった。

・各地の海で日に何度も満ち潮があったという。津波の記録も。

・江戸ではあちこちで火事があったが、大火にならずに消し止められた。

・海上に波が燃え走る怪現象が目撃された。

# この先さらに地震の被害について記述あり。神奈川の小田原で大きな被害があったようだ。また、十二月の日付で余震が続いていることも記録されている。

大地震2(関西中部大地震)宝永地震

宝永四年十月四日

・朝東北に薄赤い立ち雲が多く見えた。夏の夕立雲のようなものだ。
・寺で法事の後夕食。未の一点、地震。
・揺れが大きく鎮まらないのでみな申し合わせて庭に飛び出した。多くの者は裸足だった。
・大木が揺れて大風が吹いたようだった。
・揺れがひどくて歩けないほどだった。
・石塔が倒れる音がした。
・江戸ではあまり揺れなかったようだ。
・大阪方面でおおく被害者があった。
・郭の亭主は遊女がどさくさにまぎれて逃げないよう蔵に縛りつけて監禁した。そのせいで多くの遊女が死んだ。

天体

元禄十七年五月十六日

・丑寅の間、月食九分。雨天で見えなかった。

同年十一月一日

・「日食九分、申の初刻、西の方にかけ初め、申の刻食甚。日入半帯食。西国にては復して入るべし」

同十五日

・月帯食四分、酉ノ時。

伊勢参宮にまつわる怪異

宝永二年閏四月二十日

・数十里離れたところから二三日で(伊勢まで)往復した。
・死んで葬式もあげた人が、ひょっこり伊勢から帰ってきた。
・子供が夢うつつで白馬に出会い、これに乗って参詣した。
・婦人が参宮の途中で月のものに汚れ、宮川で(みそぎ中に?)溺れて流れてしまったが、連れのものが帰りに見ると、溺れて流されたと思った婦人が岩の上に何事もなく立っていた。

・などという噂がおおくささやかれ、伊勢に参る人がおびただしい数になった。「大神宮利生記」という書が出版されて、このような神異が多く記述されているという。

富士山の爆発

宝永四年十一月二十三日

・戌、大いに鳴る(地鳴り?)。夜少し揺れる。雷が遠く聞こえたと言う。
・小田原に宿した者が言うには、夜中雷が強く、地震がやまず、富士山と足高山の間、十間余りが燃え、炎が二丈ばかり登った。石が焼けて甚だしく飛び散ったという。
・飛脚の話によれば、二十三日昼ごろ、江戸近辺を黒雲が覆い、闇のようだった。灰砂が降った。二十四日の未ノ上刻に、小田原に到着したところ、富士山が焼けて、五六匁から十匁くらいの小石が降った。黒雲が覆い、道筋は見えず、行きも帰りもできないのでその場に逗留し、本陣より「通路なき」の手形をとって国元に帰ったという。

・噴火は江戸にも影響があった。雪のように灰が降り、鎌倉砂のようなものが降り注いだ。たびたび地震のようなものがあったようだ。
・奥州より来たものが、江戸より八里東で砂が降ったことを証言する。

# どうやら揺れたり、灰が降ったりという状態では、富士山が見えなくなってしまうので、なぜこの状態になっているか最初はわからなかったようだ。富士山に近い地域の者が、噴火を見て伝えたのが次第に知れ渡ったようだ。

・十二月八日に噴火がとまる。
・富士山と足高山の間に新しい山ができた。「大いさ尾州の小牧山ほどあり、小富士と称すべからず、宝永山と称すべきという」

# 翌年の日付で噴火の灰を片づけが問題になっている様子も見られる。市中ばかりでなく、農村部でも、農民が各自でやれないほど積もったケースがあるようだ。

異人

宝永五年十月二日

・屋久島に異人が現れる
・鼻筋高く、色の白い大男が、髪を月代にして日本人のようないでたちでいるのを炭焼きの男がみつける。
・役人が取り調べたが、言葉が通じなかった。
・八月に異国船がやってきて、すぐに立ち去ったという事件があったので、その時に小舟で上陸したのだろう、ということになった。
・長崎奉行所に届け出た。

奇祭:おやり祭り

・疹が流行したので、奉行に届け出た上で、先例にならって「おやり祭り」をとりおこなった。
・八・九寸の陰茎を、竹で枠組みを作って紙で張りぼてにして、「おやせ、おやせ」と囃す。「おやり」は「追いやれ」の略で「おやせ」もそれが転じたものだ。だんだん町より出す。# 町から疫病を張りぼての陰茎で負い出すのだろうか。
・あるいは竹で五聞ばかりの男の人形を作り、二間もの長い陰茎をつける。人形の頭に人が乗って、陰茎を紐で引いてヒョクヒョクと揺らす。それを人が見て大騒ぎする。

# 「聞」という単位がよくわからない。尋(ひろ)か、もしくは間(けん)のことだろうか。直後の陰茎の長さは間(けん)になってる。尋でも間でも1.8mくらいなので、背丈が 9m で陰茎の長さが 3.6m といったところだろうか。

・おやり焼き場で人形や陰茎を焼く。その日は一両日消えないので、火消し役人が見張っている。

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