(序文から)……なーんて。
 ご大層な序文を書いてしまったものの、わたしは動物学者でもなく、中国文化の専門家でもなければ、民族学者でもない。付け焼き刃の知識をひけらかしているだけのど素人である。それは、各方面で専門的な知識を身につけた人にならたやすく見抜けることだろうし、改めて言い訳をするまでもなく本書が鵜呑みにされることもないと思う。
 本来ならば、もっとしっかり検証をして、根拠を固めるべきなのだろう。たとえば、牛や虎の化け物を日本の鬼に結び付けるなら、『山海経』以外の文献もあたり、時代別、地方別の中国の伝説について、もっと詳しく把握してから主張すべきと思う。
 やってみたいのは山々だったが、いかんせん、わたしにはその手段も能力もない。中国の古文書など、どこで手にいれればいいのかわからず、仮に手に入ったとして、中国語で書かれていたら読めないのである。せめて、日本人の研究家の書いたものや、中国人の研究家が書いたもので日本語に訳されている歴史や民族学の本などをあたるべきなのだろうが、膨大な量の専門書のどれを参考にしていいのか、たまたま手にしたそれのみを鵜呑みにしていいのか、素人のわたしには判断しかねるのだ。「ナントカという本に書いてありました」と言ったところで、その本が出鱈目なのだと反論されれば手も足も出ない。
 ならば最初から素人の思いつきを貫いたほうがすがすがしい。開き直ってしまえばこっちのものなのである。おそらく出鱈目なことも書いているだろうけれど、素人のわたしは無知を隠すつもりがないのでちっとも問題ない(ほんとに問題ないのか?)。
 ただ、それほど的外れな推理ではなかっただろうと自負もしている。動物園でクモザルを見る時、わたしたちはごく当たり前にこんなことを言うはずだ。
「まあ、器用な尻尾ね。まるで手がもう一本ついてるみたい」
 クモザルの尻尾は先の方に毛がなくて、指紋のようなしわまでついている。枝に絡ませることはもちろん、尻尾の先でものを拾うことさえできるのだ。わたしが『山海経』の作者で、南米でクモザルを見たとしたらこう書き記すと思う。
獣がいる。そのかたちは猿のようで白い体、黒い首に白い髭、黒い手足。
尻に手を持つ。その名はジェフロイクモザル。
 このように文章で書き記したのち、もとのクモザルを知らない挿し絵画家になったつもりで絵も描いてみよう。尻に手というのがポイントなので、もちろん人の手をくっつけるのだが、一本なのか二本なのか説明がないので、尻から両手が生えているように描いてみようか。すると、本来の手足を含めて六本の手足が生えた奇妙な生き物があらわれる。
 こうしてわけのわからない生き物はたやすくできあがってしまうのである。
 では、その文章と挿し絵だけを見て、もとの生き物を想像すると、六本足といえば昆虫の特徴でもあるので、わたしは動物図鑑ではなく昆虫図鑑を引っ張り出すかもしれない。また、神話・伝説に詳しい人ならば、手足がたくさんある神々の像の中から似たような特徴のものを選び出すかもしれない。あるいは、古代人が酒を飲んでラリっている時に思いついたものとして、正体あてなどという行為そのものをナンセンスといって批判する向きもあろうし、その可能性も否定しきれない。
 結局のところ、答は謎を書き記した人にしかわかりゃしないのだ。わたしたちはどんな専門知識を用いても、ただ可能性のひとつを提示することしかできない。そして、本書もまた、これが正しいと断言するような類のものではないと、一応は言い訳しておこうと思う。

目次へ

 
[an error occurred while processing this directive]