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和名 トマト
別名 蕃茄(ばんか) 赤茄子(あかなす)
学名 Lycopersicon esculentum 「食べられる狼の桃」の意
科名 ナス科
中国名 蕃茄 西紅柿
英名 tomato
エスペラント tomato
その他 tomate(独、西、葡、仏...など)
pomodoro(伊)「金のリンゴ」という意味
夏〜秋
原産地 南アメリカ熱帯地方

 
 
新大陸からやってきた金のリンゴ
 南米原産のトマトがヨーロッパに伝来したのは 16 世紀の中頃。資料によって数年の誤差はあるが、コロンブスが米国大陸を発見したあとの話であることは間違いない。どういうわけか最初の頃は毒草だと信じられていて、ヨーロッパでは長い間その美しい実を「金のリンゴ」と呼んで鑑賞用に栽培していたが、決して食べようとはしなかった。そういえばナス科でトマトを小さくしたような液果をつけるイヌホオズキは毒だというし(薬にもなるけど)、ナス科には毒草が多いような気はする。

 アジアへのトマトの伝来は、1658年にポルトガル人がジャワに持ち込んだのが最初と言われている。日本に伝来したのは江戸時代で、17世紀の中頃には博物学の本などに掲載されていたらしい(参考[広告]>平凡社『花ことばicon(下)』)。この当時はまだ珍しい植物として記録されているだけで、食用とはされていない。唐柿、唐なすび、などと呼ばれていた。

観賞用から食用へ
 その毒草を最初に食べたのは、一説によればロバート・ジョンソンというアメリカ人だったという。彼はトマトが無害であるばかりか、乾燥した土地でも栽培できることに気づいて、その利用価値を人々に知らせたかった。そこで1820年 9月26日、ニュージャージー州セーラムの裁判所前で群衆の見守る中トマトをパクリとやってみせた(参考>石川ファーム「トマトの歴史」リンク切れ)。この出来事がきっかけになったかどうかわからないが、アメリカでは 1830年頃からトマトの栽培が盛んになる。

 欧米でトマトが食用にされるようになった頃、日本では明治維新をへて文明開化の真っ盛り。欧米風の食文化が次々と取り入れられて行く。明治5年(1872)、仮名垣魯文が『西洋料理通』という本の中で「蒸し赤なす製法」というトマトの食べ方を紹介している(参考>全国トマト工業会「ちょっといい話」)。しかし、一般にひろまったのはもっと後のことだろう。

 明治 9年にアメリカから帰国した大森松五郎という人がトマトの缶詰を製造したが、当時の技術では長期保存のきくものができず、あまり広まらなかった(参考>全国トマト工業会「トマトの歴史」)。
 明治32年、ケチャップで有名なカゴメの創始者・蟹江一太郎が西洋野菜の栽培に着手、36年にはトマトピューレの製造を開始、41年にはトマトケチャップの製造を開始する(参考>カゴメ株式会社・カゴメのあゆみ)。

 トマトという名前はメキシコのインディオが現地の言葉でトマトルと読んでいたのが語源だと言われている。フランスではトマトに催淫作用があるという俗信から pomme d'amour 愛のリンゴと呼ばれ、イギリスでも Love apple と呼ばれていた時代がある。

 トマトを赤くしている色素はリコピンと言ってカロチノイドの一種である。リコピンには抗酸化作用といって、体の中の活性酸素を退治する働きがあり、老化予防によいとされている。リコピンを配合した錠剤なども売り出されている。

トマトにまつわる言葉・文学作品など
トマトが赤くなると医者は青くなる
 よく熟したトマトは栄養価が高く、毎日食べていれば病気にならない。病人がいなくなると商売あがったりで医者が青くなるというわけ。「一日一個のリンゴは医者いらず」と似たような論理。

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 宮沢賢治の名作。昭和 2年頃の作だと言われている。主人公ジョバンニの姉が「トマトで何かこさえて」くれたとある。「何か」とあるだけで、どんな料理だったか書かれていないのが悩ましいところ。ある人はサラダやピクルスを想像し、またある人はラタトゥイユのような加熱した料理を想像するが、共通したイメージは南ヨーロッパの田舎の香りではないかと思う。
 このころトマトはケチャップの原料として栽培されていただろうが、野菜としての食べ方を知っているのはかなりの西洋通だったと言われる。

 
 
珍獣様が食されたさまざまなトマトたち