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ゲーム作ってます

 クリスマスに向けて新作ゲームを……と思うんだけれど、もしかするとクリスマスには間に合わないかもしれないです。クリスマス限定でなく、クリスマスやバレンタインデーのような行事にふさわしい内容を予定してますが、予定は未定なのでどうなっちゃうかわかりません。

人間は死ぬまでに何曲くらい歌を覚えるのか

 小学生の頃、隣のクラスにいる友だちが言いました。
「うちの先生は宿題を忘れた子に罰ゲームとして歌を歌わせる。前に歌った曲はダメなので、毎日忘れてくる子は歌える曲がなくなって困っている」

 こういったネタふりをされたら、普通の人だと「だったら宿題をしてくればいいじゃん」とか言うのかもしれないんだけれど、わたしは真顔でこう答えたのでした。
「毎日歌ってもたったの365曲なのに、なんで困るの?」

 友だちは、そんなに知ってるはずがないと言い張るんだけれど、わたしは絶対にそのくらいは歌えると言って引かない。そう簡単に確かめられることでもないので、この話はこれで終わり。たぶん友だちはこんな話をしたことすら覚えていないと思う。

 ところが、わたしときたら、大人になっても忘れられず、気になってしょうがない。一体自分は何曲くらい歌えるのか?

 実は当時、アニメソングばかり500曲くらい集めた歌集を持っていて、カバー見返しに平尾昌晃のコメントがついていた。「100曲知ってたらアニメ通、200曲知ってたらマニア、300曲知ってたら博士、500曲歌えたら宇宙人」的な内容だったんだけれど、どこかにしまい込んじゃって詳細は確認できない。

 このコメントにそそのかされて、知ってる曲に○をつけていったらその時点で300曲を軽く超えてた。なーんだ、簡単に一年分確保。宿題忘れなんか恐くない、恐くないったら恐くない。

 これに童謡(腐るほど知ってる)と歌謡曲(それほど知らないと思っていたけど、今になって思い返すと意外と知っているかも)と、国内外の民謡などをプラスすると、おそらく1000曲は超えるんじゃないかと想像してる。想像してるだけで数えたことはないんだけれど。

 最近、midomi という新しい遊び場にはまって、この疑問を解消すべく、日々データ入力にはげんでいる。現在 400 曲を超えたところ(ダブってる曲が少しだけある)。まだ余裕だね。何曲くらい歌うと「もうレパートリーがありませーん」って言えるか挑戦中です。

 そんなことする暇あったらゲームを作れよって話もちょっとあるんだけれど、言い訳すると、歌は肺機能のアップにつながるのでリハビリ目的もちょっとだけね。

http://www.midomi.co.jp/index.php?action=main.profile&username=chinjuh
↑ここから、レコーディングっていうタブをクリックして、「すべて表示」をクリックすると、すでに歌った曲の一覧が出てきます。「登録日」を二度クリックで最新順になります。新しいものほど歌唱力が上がってます(たぶんね)。あ、そうそう、こないだまでダメだった Opera にも対応したらしいです。

 なるべく人が歌ってないところを狙っているのでかなーり選曲がマニアックになっているかも。ここ数日、童謡・唱歌を攻めてます。自分の限界に挑戦中なのでリクエスト歓迎。童謡とアニメソング(古いのね。新しいのは知らない)にわりと強いです。

勘違いと思いこみの伝説

 これまでにも、さまざまな勘違いと思いこみ伝説を生み出したわたくしですが、先日またひとつ、新たなる伝説の発掘に成功いたしたのでございます。

ともとす(動詞)
 けむり、灰、ほこり、塵などをはらい清めること。また、それらで汚れたものをきれいにして輝かせること。例:煙と灰をともとして(チムチムチェリー)

注:「煙と灰を友として(供として)」です。中学に入るくらいまで本当にそういう言葉があると思っていたような気がする。日常用語と日常では使わない文語の使い分けをするくらいのセンスはあったので実際に使って笑われるような経験をしなかった。そこらへんが思いこみを深める要因になっている。

<これまでの思いこみ伝説>

  • 唱歌「線路は続くよどこまでも」で「遙かな町まで」の歌詞を「春、金町まで」と脳内変換して15年くらい育つ。
  • 唱歌「トロイカ」の「響けわこうどの歌、高鳴れバイヤン」という歌詞を見て、アコーディオンの親戚のワコーディオンという楽器の短縮形がワコウドで、バイヤンとともにロシアでは一般的な民俗楽器と思いこんだまま18年くらい育つ。途中で設定が追加され、ギターにアコースティックとそうでないのがあるように、アコーディオンのワコースティックタイプがワコーディオンなのだとも……(この設定誕生時にはアコースティックの意味も何らかの勘違いをしていた)  なお、最近は心配なので書き添えることにしているけれど、「わこうど=若人」ですので。
  • 唱歌「思い出(垣に赤い花咲く……)」の「そよ風に花ゆらぐ」の歌詞を「そよ風には、なゆらぐ」と読んで、垣根に咲いている赤い花が、そよ風に「なゆらいでいる」様子を想像したまま13年くらい育つ。揺らめくと同義語で、今でもそういう言葉がありそうな気がしてならない(ないよ)。
  • アニメ「海底少年マリン」の主人公は父親に改造され海の中でも自由に呼吸できるようになったが、代わりに長時間陸にいることができなくなった。常にウェットスーツを身につけているのは皮膚と同化して脱げないから、と思いこんだまま12年くらい育つ。
  • ハリモグラやカモノハシには腹に袋がないことを知っているのに、カンガルーと同じページに載っているからという理由で有袋類だと思いこんだまま20年育つ(ハリモグラは単孔類だけど育児嚢=袋があるって話は前に聞いた)

ポエムですか、間違いですか

 20年くらい前の、灰谷健次郎のエッセイだったと思うんだけれど、寿司屋へ行った時の話として、こんなエピソードを紹介していた。

 当時のことなので、寿司屋といったら回らない。カウンターには寿司ネタの並んだショーケースがあって、目の前で板前さんが寿司を握ってくれる。少し離れたところに子連れの夫婦がいて、子どもは目を輝かせて板前さんの手つきを見てる。

 すると、ショーケースの中で、海老がピシャンと跳ねた。それを見た子どもは大喜びで「海老が生きた!」と叫んだ。生きてる、でもなければ、生き返った、でもなくて「生きた」と言う。それを聞いた母親は「そうね、"生きてる"わね」とさりげなく言い直した。

 その光景を近くで見ていた灰谷健次郎は「あれは言葉遣いの間違いではなく、詩の誕生する瞬間なのだから、言い直す必要なんかないのだ。詩の芽をつみ取ってはならない」というような意味のことを書いていたと思う。はげしくうろおぼえなので文章は違っているはずだけれど。

 たしかにその通りで、今まで動かなかった海老が、急に跳ねたのを見て「生きた!」と表現するのはポエムだ。「生きている」や「生き返った」なんかじゃ表現できない、瞬間の驚きと喜びが凝縮されたすばらしい表現だと思う。

 でも、「お母さん、海老が生きたよ!」をポエムとしてとらえられるのは、「生きている」や「生き返った」という、一般的な言葉遣いを知っているからで、「海老が生きた」が日常的に使われるようになったら面白くもなんともない。

 わたしはかねがね、2ちゃんねるなどで使われているネット言葉にも近いものがあると思う。たとえば既に出ている話という意味でガイシュツと言うけれど、これはもちろん既出(きしゅつ)の読み間違い。最初はどこかの若いのが読み間違えたのをおちょくって言われたものだろうけれど、既出ではなくガイシュツと書くことで単に「既に出てる」以上のさまざまな感情が含まれる。だから面白い。面白いから新語として使われる。でも、これを面白いと感じられるのは、正しくは「既出(きしゅつ)」であると知っているからで、最初からガイシュツだったら面白くもなんともない。

 「おい、オマエら、○○について語ってくださいお願いします」なんかもそう。「おい、オマエら」などと乱暴な言葉で始めたら「語りやがれ」くらいの乱暴な結びがなければいけないのに「してください、おねがいします」と丁寧に結ぶ。その意外性が面白い。ポエムというよりお笑いの基本かもしれない。詩を書くことも笑いを取ることも、感動を生み出す作業としては同じことだ。

 萩本欽一が「なんだばかっ、このやろう……なのよ?」のようなギャグを言うことがあるけれど、坂上二郎とコントをしていたとき、言葉遣いが乱暴だと視聴者からクレームが来たので、「ばかやろうっ!」と語気を荒げたあとに頼りなさげに「……なのよ?」と付け加えたら笑いが生まれたのがきっかけらしい。こういう笑いも常識のないところには決して生まれない。正しくは(あるいは一般的には)こうである、という下地があるからこそ生まれる感動なのだ。

 子どもたちの日本語能力が極端に下がっているとニュースでも言われている。まあ、そんな話は明治の頃から言われていると思うんだけれど、昨今の低下っぷりは並大抵のことじゃないらしい。正しい言葉、一般的な言葉遣いを知らないで育つのは、会話がないせいだ。言葉は辞書を引いて覚えるものではない。会話のなかで覚えていくものだ。意味を知らずに発音だけが記憶され、家族や友人との会話の中で発音と意味が自然に結びつく。それが言葉の学習の正しい方法であって、辞書をひかなければ誰も意味を答えられないような単語は、遠からず古語や死語などと呼ばれるようになるだろう。正しい言葉をなくしたくないと思うのならば、嘆く前に語れ。会話しろ。たわいもないことを始終話しあえ。それはオマイら大人たちの役目なんですよ?

 灰谷健次郎が詩の生まれる瞬間と感じた時に、母親が言い直したのは、正しい言葉遣いを教えようとしたのではなく、ごく自然に口から出たものだろう。そんな些細な会話すら減りつつある今、詩は(お笑いは)どこから生まれ、どこへ消えていくのだろう。天国の灰谷先生、そこんとこどう思われますかー。

 ちなみに、灰谷健次郎の命日は11月23日です。思い切り旬を逃しました。

タグ:midomi

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  • 2007年12月12日(水)15時17分
  • 日記

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