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アブラハムとイサク(イスラエル)

 遠い昔、アブラハムという信仰のあつい人がいました。彼は大きな一族をまとめる族長で、自分と一族が幸せに暮らせるのも、すべては神様のおかげだと信じていました。

 ところがある日、アブラハムは神様の声を聞きます。
「アブラハムよ、息子のイサクを連れて山へ行きなさい。そして山の上で火を焚いて、イサクを捧げ物とするように」

 これを聞いてアブラハムはひどく驚きました。神への捧げ物にするということは、羊のように殺して火で焼くということです。実の息子を殺すなんて、そんなひどいことをどうしてできるでしょうか。けれど神様の言うことには逆らえません。アブラハムは息子のイサクを連れ、薪を背負って山に向かいました。

 お父さんが急に山へ行こうと言い出したので、イサクは不思議で仕方がありません。神様に捧げ物をするのだと聞かされていましたが、犠牲にする羊は連れていなかったのです。

「お父さん、僕たちは薪と火を持っているけど、肝心の羊を持ってきませんでしたよ」
イサクがそうたずねると、アブラハムは涙をこらえて答えました。
「息子よ、神様はご自分で犠牲の羊を用意してくださるだろう」

 目指す山の上まで来ると、アブラハムとイサクは薪を積み上げました。それからアブラハムは、息子をしばりあげて、薪の上に寝かせました。こうなるとイサクにもやっと意味がわかりました。お父さんは自分を神さまに捧げるつもりなのだと。

 けれどイサクはお父さんと、お父さんが信仰している神様のことを信じていましたし、逆らわず、ただ空を見ていました。
 息子のいさぎよい姿を見てアブラハムは涙を落としそうになりました。けれど、持ってきた屠殺用の短刀を取り出すと、息子の首筋にあてて今にも命を奪おうとしました。

 その時です。空から天使がおりてきてアブラハムに言いました。
「イサクを殺してはいけません。あなたは神の言葉どおり自分の息子を捧げようとしました。あなたこそ神をおそれる者です。さあ、顔をあげてまわりを良く見てみなさい」

 アブラハムが顔をあげると、藪に角をからませて動けなくなっている雄羊がいるのに気づきました。そこで、その羊をイサクの代わりに捧げ物として山をおりて行きました。
 

『聖書』より
 
 
 この話、信仰がないわたくしなどが読むと、アブラハムというオッサンが一族をまとめるためにものすごいパフォーマンスをやってみせたような気がしてしまいます。
 「一族のだれかを生け贄に出す」と言うんじゃなく、自分の息子を差し出してるのは重要な点ですよね。神のために族長みずから涙をこらえて自分の息子を捧げちゃうんです。こうなると、まわりで見てる人たちも逆らえなくなるじゃありませんか。
 聖書では息子のほかに従者を連れてゆくことになってます。従者は山の下で待っているという設定になってますが、こっそり用意していた羊を連れて別のルートから山に登ったんじゃないかと思うんです。
 アブラハムは山の上で息子を殺そうとします。けれど、すんでのところで「天使の声を聞いた」と適当なことを言いはじめ、従者が仕込んでおいた羊をみつけて
「ほうら、ここに羊がいる。神はオマエの代わりに羊を殺して捧げろと言っている。神はいつだって我々にとって一番いいことを考えてくださるよ。今回も逆らわなくてよかった」
なんてことを言いながら、山を下りたんじゃないでしょうか。
 純真な息子は、家に帰ってこの話をみんなにするでしょう。
「僕こわかったけど、お父さんの言うことだから従おうと思ったんだよ」
人々は、族長アブラハムの信仰の強さに感心し、けなげな息子にもう一度感心するでしょう(イサクはこの時、すでに大人になってたって話も聞いたことあります。だとしたら父親とぐるになって天使を見ただの言ってたのかもしれません(笑))。
 一族も人数が多くなるとまとめるのは大変です。異教の神を信じる種族とつきあってるうちに信仰を捨てる若い人たちも現れることでしょう。そういう人たちを引き締めるためには、このくらいのパフォーマンスが必要だったんじゃないかなあと思います。
 ちなみに、キリスト教徒の知人に聞いたところ、この世のありとあらゆるものは神に創られたものだから、神が返せと言えば息子といえども返さなければならないんだ、というような説明をしてました。よい子のみなさんはこちらの解釈をおぼえたほうが良さそうです。

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