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郡山の昔話茶屋で聞いた話 #昔話

 郡山駅の2Fにある「おばあちゃんの昔話茶屋」で聞いた話を思い出して書いてみます。実際の語りは福島県の方言で、とても味があって面白いのですが、再現できるほどちゃんと覚えていないので無味乾燥なあらすじですみません。しかも耳で聞いて覚えたものだし、外は駅の通路なのでけっこううるさくて聞こえなかった部分も多いです。そんなこんなで細かい設定は違ってるかもしれないですが、まあやってみます。


『口無し女』

 これは『二口女』とか『飯食わぬ女房』とか呼ばれている話でした。わたしはこの話の途中から聞き始めたので、最初がどう始まってたか、ちょっとわからないのですが、広く流布してる話だと、ひどくけちん坊な男の話です。

 ある男は、ケチが高じて「嫁はめしを食うからいらん」といって、誰にすすめられても結婚しませんでした。ある日、見知らぬ美しい女が現れて「自分はご飯を一切いただきませんから嫁にしてください」と言うので、とうとう夫婦になりました。

 この嫁は、とてもよく働き、本当にご飯を食べません。しかも美しいので、亭主は上機嫌です。しかし、どうもおかしい。なぜか米の減りがいつもより早いのです。怪しんだ亭主は仕事へ行くふりをして隠れて様子を見ていました。

 するとどうでしょう。嫁が大量のお米を炊いて握り飯を作り始めました。それから嫁は自分の髪の毛をほどき始めるのですが、なんと嫁の後頭部には大きな口があるのです。普段はきれいに結い上げてあるので見えなかったのですね。嫁はその口に、次から次へとにぎりめしを放り込んで、大量のご飯をぺろりと食べてしまいました。これでは米が減るはずです。(わたしはこの辺から聞き始めました)

 すっかり食べてしまうと、嫁は髪の毛をもとどおりに結い上げました。亭主は何食わぬ顔で家に帰ります。見れば嫁の腹は大量の握り飯でぽっこり膨れていました。それを見た亭主は「こんなに腹が膨れてやゝ子でも出来たのかい」と、わざと上機嫌でかまをかけるのですが、嫁もしおらしい声で「そうよ、あんたのやゝ子ができたのよ」なんてこと言って甘えてくるわけです。そのうち嫁は腹が痛いと言い出して(完全に食い過ぎです)、亭主のひざまくらで腹をさすってもらったりするのですが、そこで亭主が何気なく子守歌をうたいはじめて、即興の歌詞で嫁が隠れて握り飯を食べてたのを歌っちゃう。

 それで「みーたーなーっ」てなことになります。たしか、その家には巨大な桶があるんです。亭主の仕事が桶屋…いや、それは別の話だったかも。とにかく、亭主に見られたことに気づいた嫁が、言葉巧みに亭主を桶の中に誘い込みます。穴がないか入ってよく見てくれとか言うんだったはずです。嫁はその桶をエイヤッと担いで山へ走って行きます。

 亭主は桶の中で、このままだと食われちまうってぶるぶる震えているんですが、嫁が小便をするために立ち止まったところで逃げ出します。亭主が逃げたのに気づいた嫁は、小便をじゃーじゃー垂らしながら(このへんは子供にバカウケするシーンだと思う)ものすごい形相でおいかけてくる。亭主は逃げる、嫁がおいかける。

 そうするうちに、菖蒲とヨモギが生えている野っ原までやってくるのですが、なぜか嫁は亭主に近付けなくなって、悔しがりながら逃げて行ってしまいました。どうやら鬼婆というのは菖蒲とヨモギの臭いが嫌いなようです。

 そこで亭主はこれらを刈り取って持ち帰り、家の屋根などに刺しておきました。それからというもの、村には鬼婆が来なくなったということです。


 語り手さんが言うには、自分が子供の頃に聞いたのはこうなんだけど、別の町の話だと『やきめしかぶり』というタイトルだっていうんです。やきめし、というのは、お釜で炊いたときにできるおこげを握ったものらしいんですが、昔はお姑さんに「今夜はどのくらいご飯を炊きますか」と聞くと「一升五合かね」なんて答えるわけですが、その中にお嫁さんの分は入ってないらしいんですよ。でも食べなきゃ死んじゃうでしょ。どうするかっていうと、お釜に焦げ付いたご飯をこそげおとして、こっそり握り飯にして、畑に行くとき隠れて食べたんだって。

 『口無し女』も『やきめしかぶり』も、そういう女の耐え忍ぶ暮らしから生まれた話じゃないかってことでした。『やきめしかぶり』のほうは、嫁の正体が山姥ではなく大蛇で、正体を最初に見たのは隣の家の男だそうです。となりのヤツ、きれいな嫁さんもらって、うまいことやりやがったな、という嫉妬からのぞき見して、大蛇だって事に気づいて「おい、お前の嫁は大蛇だぞ」って教えるんだそうです。
 

『ひめいたか』

 この日は観客が、どこかの町の市民団体か、趣味のサークルかなにかの人たちで、話の合間に熱心に質問したりして会話がはずんでました。会話の途中で、するっと次の話が始まるので、ついさっきまで現実だったのに、気づいたらもうお話の中にいるという、不思議な状態でした。

 で、この話も気づいたらもう始まってるんですよね。だから最初どんなふうだったかよく覚えてないんですが、とりあえず、ひめ、というのはお嫁さんのことらしいです。

 亭主の留守のあいだに「ひめいたかー」っていいながら山姥が来ます。山姥は家にあるものを飲み食いして、また明日来るっていいながら帰っちゃう。

 震え上がったお嫁さんは、恐くて家にいられないから、明日は自分も連れて出てほしいと頼むんですが、亭主はとりあわない。しかしお嫁さんも恐くて恐くて、次はきっと取り殺されてしまうって言うわけです。そこで亭主は “きんびつ” の中にお嫁さんを入れて、山姥に気づかれないように、天井から紐で下げといてやるっていうんですよ。きんびつ、というのは木櫃(きびつ)のことだそうです。衣装を入れたりする四角い木の箱だってことでした。

 それから、”とうち” だったか、そんな名前のものをお嫁さんに与えて、山姥がきたらこれをカチッと歯で噛みなさいって言うんですが、この言葉はかなりうろ覚え。客席から「トチの実ですか」って質問があって、語り手の方が「トチの実は歯でかめないくらい皮が固いので違うと思います」って言ってた。たぶん、クリを茹でて、やわらかくなった先のほうに糸を通して乾燥させた “とおしぐり(かちぐり)” じゃないかって言ってました。

 で、その “とうち” を歯でかんでカチッと言わせると、山姥が家が傾いで潰れそうになってると思うはずだっていうんですよね。なんでいきなりそういうことになるのかよくわからないんですが、とうちを食べる時の音が家鳴りにでも似てるんじゃないですかね。わたしは食べたことがないのでわからないんですけど。

 そうして亭主は出かけてしまいます。もともと嫁の話をろくに信じてない亭主なので、きんびつを天井に吊るしたあとに、はしごを片づけないで出かけてしまいました。

 やがて山姥がやってきて「ひめいたかー」っていう。お嫁さんはきんびつの中で息を殺しているのですが、はしごが置いてあるのでとうとう山姥にみつかってしまいました。お嫁さんは震えながらとうちをかじります。カチッと音がすると、山姥は家が倒れると思って一瞬ひるむのですが、音がやむとまたはしごを上ってきます。

 カチッ、ひるむ、カチッ、ひるむ……これを繰り返してるうちに、山姥も家が倒れる音じゃないって気づいちゃう。とうとうはしごをのぼりきって、きんびつを吊るしている縄を切ってしまいました。

 どしゃーんと床におちて、きんびつはバラバラになってしまいます。山姥は、中にいたお嫁さんをつかまえると、バリバリ食べ始めて「手の指の爪は固いからまずい、足の指の爪も固いからまずい」っていいながら指の先だけ残して、山へ帰ってしまいました。

 そこへ亭主がもどってきてびっくり。そこいらじゅう血の海で、指の先だけが残っています。ああ、もうちょっと真剣に嫁の話を聞いてやればよかったと思っても後の祭り。お嫁さんは山姥の腹の中。二度と帰らぬ人なのでした。


 完全にバッドエンドでそうとうホラーな話です。指だけ残すってあたりがリアルで恐過ぎますね。語り手の方によれば、この話も家で耐えてる女の生活から生まれたんだろうって言ってました。亭主は山でヘェという魚(ハヤのことらしい)をつかまえて、町へ売りに行くんですが、町へ行ったら当然遊んでくるだろうっていうんです。だからお嫁さんが必死でたのんでも連れていこうとしなかったと。

 実際の生活でも、ちょっとしたお金を作るために、亭主が町へものを売りに行くことがあったんだと思います(笠地蔵のおじいさんも正月の準備をするために笠を作って売りに行くでしょう?)。男はそうやって町へ行ったついでに気晴らしもできるけれど、女はろくに家からも出ずに暮らしているから、こういう話が生まれるんじゃないかってことでした。

『猿と雀』

 これは『猿蟹合戦』の類話だと思います。

 雀が葦簀(よしず)に巣を作って、卵を七つ産みました。そこへ猿がやってきて「おまえは卵をたんと産んだっていうじゃないか。腹が減って仕方がないので、ひとつでいいからくれないか」って言うわけです。

 もちろん雀はいやがります。まだ卵とはいえ自分の子どもですからね。しかし猿は「くれないと巣を壊すぞ」といって葦簀をがさがさゆすり始めます。しかたなく雀は卵をひとつやりました。

 猿は卵をぱくっと割って、ぺろっと飲み込むと、もうひとつ、もうひとつ、と次々にねだり続けて、あと三つというところで「また明日くる」って帰って行きました。

 雀の母親は「このままじゃみんな食べられてしまう。はやく生まれておいで、明日までに生まれておいで」と一生懸命卵を温めるのですが、そううまくは行かない。やがて夜があけて、またもや猿がやってきます。

 前日と同じように、猿は巣を壊すといって卵を一個せしめますが、ここまでくると雀も覚悟を決めてもうやらないと拒否します。怒った猿は「そんならお前を食べてやる」と言いながら葦簀をのぼっていって、雀を捕まえてばりばり食べてしまいました。

 その騒ぎで巣が落ちて、残った卵のうちひとつは石の上で割れて流れてしまいました。もうひとつは、パリンと割れると、中から雀の子供が出てきます。

 雀の子は、お母さんの仇を討つんだといって、猿の家にむかってチョンチョン歩いていきますが、そこへ蜂が飛んできて、そういうことなら助太刀いたすってなもんで、雀がチョンチョン、蜂がブーンブーンと一緒に歩いていきます。

 途中で石臼なども加わって、チョンチョンブンブンドスンドスンみたいな音をたてながら、みんなで猿の家までやってきます。

 そこから先は猿蟹合戦とほとんど同じで、雀の子はみごとに仇を討ちました、という話。

『おりや』

 タイトルがよくわからないんですが、「おりや」というかわった名前の女の子が出てくる話です。

 おりやは五歳になる女の子です。ある日両親が一緒に出かけるので、ひとりで留守番することになりました。母親は「いいかい、こっちの瓶に蛇を漬けたのが少し残っているから、これは食べていいよ。だけど、こっちの瓶のは漬けたばっかりだから、絶対に食べちゃだめだ」と言い聞かせて出かけて行きました。

 蛇というのは、本当にあの長いニョロッとした蛇のことです。魚もろくにとれない山の中では、蛇をつかまえて塩漬け(いや、みそ漬けだったかな?)にして食べたそうです。おりやは、いろりで上手に火をおこして蛇を焼き始めました。よく脂ののった蛇で、焼け始めるとじゅぶじゅぶ脂が落ちてきて、それにポッと火がついて燃えるんだそうです。それがもう美味しくて、おりやは食べていいと言われた瓶の中から、蛇を全部食べてしまいました。

 それでもまだ食べたくて、母親がダメだといった瓶を開けてみました。そこには太くて美味しそうな蛇がいっぱい入っています。おりやは、一本だけならバレっこないよと言いながら、次々に蛇を焼いて食べてしまいました。

 そうして、蛇をすっかり食べてしまうと、今度は喉がかわいて仕方がないのです。庭に出て、山から樋で水をひいてあるところへ行くと、ぐびぐび、ぐびぐみ、水を飲み始めます。

 そのうち急に尻の穴が痒くなって、きものの裾をまくりあげると、ばりばり尻をかいて、また水をぐびぐび飲み始めます。

 飲めば飲むほど、尻がかゆくくて仕方がありません。ふと見ると、尻から蛇のしっぽが出ています。

 おりやはびっくりして、しっぽを引き抜こうとしますが、どうにも抜けませんでした。そうしうて、とにかく喉が渇くので、ぐびぐび水を飲み、飲むたびにしっぽがのびていき、ずるずる引きずるほどになりました。それでも喉の乾きはとまりません。

 おりやはしっぽを引きずって川へ行き、ボチャンと川に飛び込むと、頭だけ水から出して、ぐびぐび川の水を飲みつづけます。しっぽはどんどんのびていき、そのうち、手も足ももげてなくなってしまい、長い蛇の体に、頭だけ可愛らしいおりやのままくっついているのでした。

 やがて町から両親が帰ってきました。しかし家におりやがいません。いろりを見るとすっかり冷えています。炎が消えても、熾き火に灰をかぶせておいたらそう簡単には冷えないものなのです。こりゃ何かあったな、と思った両親は、おりやを探し回りました。

 両親は、冷たい川の中で頭だけ出してるおりやをみつけます。一体何があったんだい、そういう両親に、おりやは泣きながら自分の姿を見せました。ああ、お前は漬けたばかりの蛇を食べてしまったんだねと、両親はおいおい泣き始めました。蛇というのはよく漬けてから食べれば美味しいのですが、漬かりが浅いうちは蛇の強い “しょう(精?)” が抜けておらず、食べると体が蛇になってしまうのです。

 両親はおりやを山へつれていき、もう村へは帰ってきてはいけない、と言い含めます。おっとうと、おっかあは、これから信心して、神様におまえをもとにもどしてくれるように頼んで、それから迎えにくるから、それまでは山で、鳥や獣をとって食べなさい。ここには食べ物はいくらでもあるから心配はいらないよ、と。それはただの気休めで、元にもどす方法なんかないのです。

 そうして、何年かたったある日、目の見えないあんまさんがやってきました。峠を越えたところで一休みしていると、ひどく生臭い風がふいてきて、耳元で女の子の声がします。
「あんまさんは、これからどこへ行くの?」
「ああ、これからあっちの村へ行くんだよ」
「それならついでに、あたしのおっとうと、おっかあに、伝えてください」
「おまえの親は、あの村にいるのかい」
「そうよ、あたしはおりやっていうの」
「おりやって、あの蛇になったっていう、おりやかい」
「そうよ。この山につれてこられて鳥や獣をとって暮らしているうちに、山を七巻半するほど大きくなりました。これから山を壊してここに大きな沼をこしらえます。その沼の中で静かに暮らしていきますから、もう心配しないでくださいって伝えてください」
「ああ、わかったよ。ちゃんと伝えるよ」
 あんまがそう言うと、おりやは山へ消えていきました。

 この山をくずされたら、下の村は潰れてしまうにちがいありません。あんまさんは大慌てて山を下りて、村の衆におりやを退治するように言いました。

 村人たちは、栗の木で千本の杭を作り、煙草のヤニを大量に集めて山へ向かいました。村人総出でおりやを探し出して、太い蛇の体に杭を打ち込んで、煙草のヤニをぶちかけて、とうとうおりやを殺してしまいました。おりやの体から流れた血は、滝のように流れて、そこいらじゅう真っ赤になったそうです。


 これはそうとう恐いですね。蛇のしょうにあたって蛇体になり、手足がとれて顔だけおりやのままってところも恐いし、何より目の見えないあんまの前に出てくるところが恐い。あんまさんには見えてないけど、その名前で蛇になった娘だとわかる。平静を装いながらも「今おれが話しているのは大蛇のおりやか」って思ってるわけです。そのおりやは、大蛇になっても幼い子供の心のまんまで、こんなに大きくなれて、もう心配ないからって親に伝えてっていうわけですよ。その素直さっていうか、子供らしい一途さが恐いですね。親に心配かけまいとしてすることで、故郷の村が潰れちゃうとか、そういうことにまで頭がまわらないわけです。
 
 福島県内でも地方によりバリエーションがあって、よその町では山をこえてくるのは目の見えない琵琶法師で、おりやは自分と出会ったことを誰にも伝えてはいけない、言えばお前の命はないぞ、と言って姿を消すそうです。しかし、放っておいたら村は山崩れに飲まれてしまうでしょう。琵琶法師は自分の命より村を救うほうが大事だと決心して村人に話したそうです。おりやを退治して村は救われましたが、村人が気づいた時には琵琶法師は死んでいたそうです。

タグ:伝説

浄蓮の滝とその伝説

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▲浄蓮の滝

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▲見事な柱状節理

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▲山葵田

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▲沢は釣り堀になっている(入場有料)

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▲伊豆のいたるところで見られる踊り子と青年の像

浄蓮の滝の伝説その1:入水した弁天様

 むかし、このあたりには山崩れが非常に多かった。滝の近くにあった浄蓮寺が山崩れで壊滅した時、寺にまつられていた弁天様が自ら立ち上がり、滝壷に身を沈めた。それ以来、この滝と谷筋は崩れることなく、多くの人たちが滝をおとずれるようになった。滝の名前は弁天様がまつられていた寺の名前に由来する。

浄蓮の滝の伝説その2:滝壷に住む女郎蜘蛛

 ある農夫が昼寝をしていると、女郎蜘蛛が足に糸をかけて巣を作っていた。農夫がその糸を切り株に結んで農作業に戻ると、切り株はメリメリと音をたてて滝壷に引きずりこまれた。あの女郎蜘蛛は滝壷の主であったかと、人々はおそれて滝に近付かなくなった。

 またある時、よそから来たきこりが滝のほとりで木を切っていたところ、うっかり斧を滝壷に落としてしまった。そこへ美しい女が現れて、この斧はあなたが落としたものでしょうと言う。女は自分に会った事を決して他言してはならないと言い、斧を手渡して姿を消した。

 きこりはその女が滝壷の主の化身だと思い、長いこと口をつぐんでいたが、ある日とうとう酔った勢いで話してしまった。そうして酔いつぶれて眠ると、二度と目を覚ます事がなかった。



 どちらも浄蓮の滝周辺にあった案内板に書いてあった話。切り株が滝壷に引きずり込まれるのも、このあたりに山崩れが多かったことを表しているそうです。二枚目の写真を見ればわかるように、溶岩が冷えてできた柱状節理の岩なので、ちょっとしたことで山崩れをおこしたのでしょう。

追記

 女郎蜘蛛の話は『日本の民話7 遠江・駿河・伊豆編』に出ています。

タグ:伊豆 伝説

水戸・大洗プチ旅行5:ダイダラボウがいる公園

 大洗から水戸方面へ向かう途中に大串貝塚ふれあい公園というのがあります。常陸国風土記にある巨人伝説の舞台だと言われています。

 那珂郡(なかのこおり)と呼ばれるところに大櫛という岡があり、むかしこの岡に巨人が住んでいた。自分の体は岡の上にいながら、海まで手を伸ばしてハマグリをとって食べていた。その貝殻がつもりつもって岡になったのだという。大くじり(または大朽ち)という意味で大櫛の岡と呼ばれるようになった。巨人の足の大きさは、長さが三十歩(約54メートル)、幅が二十歩(約38メートル)ほどだった。また巨人が小便をしたあとにできた穴は直径が二十歩(約38メートル)もある。

http://www.chinjuh.mydns.jp/ohanasi/365j/0221.htm
 昔作ったページから持ってきました。たしか常陸国風土記の内容を大ざっぱに訳したんだったと思います。このお話の大櫛というのが今でいう大串のことで、そこには貝塚があるんです。

 なお巨人の足の大きさは計算が違ってるかもしれませんね。二十歩が38メートルなら、三十歩は57メートルにならないといけませんよねえ(汗)


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▲公園の入り口にこんな建造物があります。

 この回廊のようなものは埋蔵文化財センター(古代史の資料館みたいなやつ)というものに続いてます。屋根が崩れて柱が折れてるので、ともだちが「震災の影響だ」って騒ぐんですが、これは遺跡をイメージしたデザインですよねー??

 いくらなんでもこんな壊れ方したら手抜き工事だもん。近くで遊んでた子供に変な目で見られてすっごく恥ずかしかった。

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▲巨人の足跡を再現した池です。近くに立て札があって、幅38メートル、長さは「70メートル」って書いてありました。おーっと、さらに違う数字がでてきてしまいました。わたしが昔見た資料はなんだったのでしょう。古典は底本がちがうと細かい部分が違うことがあるので、そこらへんも控えておかないといけませんねー。

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▲ここが大串貝塚です。岡になっていて、斜面に貝殻が沢山落ちてました。掘ると貝殻がビッシリ堆積した層があるということです。断面が見られる場所もありましたが、施錠されていて近づけませんでした。

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▲これがダイダラボウだ!

 残念ながら改装工事中でした。こっちは震災の影響かな。この像は高さが15メートルあって、奈良の大仏さんより少しだけ大きいそうです。中に入ることもできて、手のひらの上にある展望台に上れるそうです。上ってみたかったなあ。

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▲古代の家を再現した一画。建物が倒壊しそうになってるので立ち入り禁止でした。

タグ:水戸・大洗 伝説

影向の石〜伝説の宝庫、善養寺(江戸川区)〜

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▲影向の松(ようごうのまつ)

 江戸川区東小岩に善養寺(ぜんようじ)というお寺があります。そこには上の写真のような立派な松があって、影向の松と呼ばれています。影向というのは仏様のお姿のことだそうです。一本の松が枝をのばし、屋根のように地面を覆っています。大正15年には東京都の天然記念物に、平成23年には国の天然記念物に指定されました。

影向の石の伝説

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▲影向の石

 その立派な松の足もとに、こんな石があり、影向の石という立て札が立っています。『江戸川区史』によれば、この石は泥棒を捕まえたことがあるそうです。

 昔この寺の不動堂に泥棒が入り、仏具などを背負って逃げようとしました。松の根元に石があったので、ひょいと足をのせたところ、ぴたりとくっついて離れなくなりました。

 そこへ不動明王が現れて、泥棒の胸元に宝剣をつきつけて、二度と悪事を働いてはならんとさとしました。仏様じきじきのお叱りです。さしもの悪党も涙を流しながら許しをこいますと、足が石から離れて、仏様も姿をお消しになりました。

 今でもこの石は松の木の下にあって、泥棒が足がかけたところがくぼんでいるということです。


 善養寺には他にも沢山の伝説が残っていて、伝説のマーケットなどと呼ばれることもあるそうです。

星降りの松

 善養寺の仁王門の内側に、星降りの松があります。影向の松とは別の木です。今あるのは二代目で、初代の松は昭和の初期に枯れてしまったそうです。

 ある時この寺の和尚が虚空求問持法という修行をしていたところ、天から星が降ってきて松の木の枝にとまって輝きました。

 修業中に星が降ってくるという話はよく耳にすることです。空海の伝説にも瞑想中に金星がおりてきて口から入ったとあります。

 善養寺の伝説では、その光を村人たちも目撃し、拝んだとあります。また、その星の光は三粒の石になり、青、赤、黄色に輝いたと言われています。

 このうちふたつは失われてしまいましたが、青色の石だけは今でも寺の宝として大事にされているということです。ほんとうなら拝見したいものですが、公開はされていないようです。

 この伝説から、このお寺の山号を星住山と言うようになりました。

袖掛けの松

 むかし、江戸川で若い娘の水死体が上がりました。死体をみつけた漁民は、娘を善養寺に葬りましたが、それからというもの、境内の松の根元に娘の霊が現れるようになりました。

 寺の和尚さんが霊に話を聞いたところ、家がまずしく嫁入りの準備もできなかったので川に身を投げて死んだというのです。

 そこで和尚さんは江戸晴れ着を買ってきて松の木の枝にかけてやりました。すると娘の霊は火の玉になってどこかへ飛んで行き、あとには白い小袖が残されていたということです。

 その松がどれなのか、お寺にはなんの案内もなかったので、今は残っていないのかもしれません。ただ伝説だけが残されています。三代将軍徳川家光の頃のお話だと言われています。

むじな磬(むじなけい)

 磬(けい)というのは打楽器です。石の板を吊るして木づちで叩くと良い音がします。仏教ではお経を読む時に磬を叩くことがあります。

 ある日、善養寺の和尚さんが寺の近くにある丘でむじなの死体をみつけました。むじなというのはタヌキのことか、あるいはアナグマか、ハクビシンか、そのあたりの小獣のことです。

 和尚さんは獣とはいえ、こうしてみつけたのも何かの縁であろうと、むじなの死体を手厚く葬ってやりました。この時、土の中から出てきたのが むじな磬 です。

 この磬を叩きながらお経をあげると、不思議なことに沢山のむじなが集まってきます。集まってきたむじなたちは、みな手をあわせて仏様を拝むようになりました。

 それから数年後、寺の近所で大火事があり、もう少しで寺も焼けそうになりました。この時和尚さんが磬を叩くと、むじなたちが大勢現れて火事を消してくれたということです。
 

不動掘りのどじょう

 善養寺は真言宗のお寺です。この寺の賢融和尚は非常に徳の高いお坊さんでした。ある日、禅宗のお坊さんがたずねてきたので、二人でどじょう鍋をつつきながら、般若湯(お酒)を飲み、語り合いました。

 そのうち良いがまわってきて、些細なことで言い争いになってしまいました。禅宗のお坊さんが怒って「おまえは偉そうなことばかり言っているが、それなら鍋のどじょうを生き返らせることができるのか」と言いました。

 すると賢融和尚は涼しい顔で「できるとも」と言うと、箸でどじょうをつまみあげ、お経をとなえて目の前の掘りに投げ込むと、どじょうは生き返って泳ぎはじめたということです。

雨の植木市

 善養寺では毎年三月下旬に植木市が立ちます。これは江戸時代から続いているそうです。ある時、植木屋が白い蛇をみつけましたが、白蛇が弁天様のお使いであることを知らずに殺してしまいました。すると一天に和歌にかきくもり雨がふりはじめました。

 それからというもの、毎年植木市の頃には必ず雨が降ると言われています。



より大きな地図で 善養寺(江戸川区) を表示

 善養寺は 東京都江戸川区東小岩2-24-2 にあります。小岩駅から京成バスの江戸川スポーツランド行きに乗って江戸川病院前で下りると近いです。車で行く場合は参拝者用の無料駐車場があったと思います。

タグ:地元(葛飾周辺) 伝説

お玉ヶ池(岩本町)と於玉稲荷(新小岩)

http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=648&continue=on#continue
 この記事で、新小岩にある於玉稲荷のことを書きました。

 新小岩4-21-6 駅からちょっと離れてわかりにくいところにありますが、かなり立派な稲荷神社があります。昔は松枝町というところにあったそうですが(正確な場所は、ちょっとわかりません)、明治の頃に今の場所に移りました。

 昔、松枝町のあたりにおおきな池があり、近くの茶屋にお玉という娘がいました。ふたりの武士がお玉をめぐって決闘することになりましたが、お玉は自分の身が争いのもとになることを悲しんで、池に身を投げて死んでしまいました。

 お玉は池のほとりに葬られ、その目印として柳の木が植えられました。明暦三年の大火事で柳の木は燃えてしまいましたが、そのあとに稲荷神社を建てました。それが於玉稲荷のはじまりだそうです。

 その縁起は「新選東京名所図会」神田之部所引の於玉稲荷大神の由来に記されていると、神社の由来書にありました。

 この文章は『葛飾百話 葛飾区の民話と伝説』という昔話の本と、新小岩にある於玉稲荷の由来書を参考にして書きました。

 お玉さんの茶屋があったという松枝町というのがどこのことなのか、あまり気にしていなかったのですが、ある時、ともだちとこんな会話をして、偶然その場所がわかってしまったのです。

「ちょっと前から神田岩本町で仕事をしてるんだけど、仕事場の近くにお玉ヶ池駐車場という看板があって、なんか伝説があるらしいよ。お玉さんという…」

「あー、それ知ってる。お玉さんという茶屋の娘に、二人の侍が言い寄って争いになり、板挟みになったお玉さんが池に身を投げて死んだという話でしょ」

「えっ、なんで知ってるの?」

「だって、そのお玉さんゆかりの神社が新小岩にあるもん」

 これも何かの縁ということで、見に行ってきました。松枝町というのは昭和四十年ごろに町名が変わっていて、神田岩本町の一部にあたるとか。

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▲お玉ヶ池駐車場の看板

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▲同じ場所を引いて写したもの。池は江戸時代末期には埋め立てられていたそうです。

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▲史跡、神田お玉ヶ池畔の看板。千葉周作の玄武館道場跡でもあるそうです。

◎千代田区総合ホームページ
千代田区 町名由来板ガイド:神田松枝町
http://www.city.chiyoda.lg.jp/service/00010/d0001002.html
 帰ってきてからこのページの解説を読んだのですが、お玉さんゆかりの稲荷社が岩本町にもあるようです。おそらく知ってて行かないとわからないような小さなお稲荷さんなんだと思います。

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▲葛飾区新小岩の於玉稲荷


『江戸名所図会』より

於玉が池
 旧名を桜が池といふ。いま、神田松枝町人家の後園に、於玉稲荷と称する小祠あり。里諺にいふ、於玉が霊を鎮ると。

 その傍らに、少しく井のごとき形残れり。昔の池の余波なりといへり(往古は、大いなる池なりしが、江戸の繁昌にしたがひ、やうやくに湮滅してかくのごとしとなり。)

 里老伝へいふ、昔、この地は奥州への通路にて、桜樹あまた侍りけるところにありし池なるゆゑに、桜が池とよべりとぞ。その傍らの桜樹のもとに、玉といへる女出で居て、往来の人に茶をすすむ。容色おほかたならざりければ、心とどめぬ旅人さへ、掛想せぬはなかりきとなん。

 中頃、人がらも品形もおなじさまなる男二人まで、かの女に心を通はせける。されば、切なる方にと思へども、いづれ、おとりまさりもあらざりければ、わが身のうへを思ひあつかひて、女はつひにこの池に身を投げてむなしくなりぬ。

 さながら津の国の求塚の故事に似て、いともあはれなればとて、里民うち寄りて、亡骸を池の辺に埋み、しるしにとて柳を植ゑて、記念の柳とは号けけると、云々(その旧址、明暦の回禄に亡びぬるとぞ。いまは名のみを存せり。このゆゑに、お玉が池とは呼びならはせりとなん)。

# 求塚の故事は、万葉集にある菟原処女伝説のこと。
# 明暦の回禄は1657年の大火のこと。
# 新小岩の於玉稲荷の由来書にある『新選東京名所図会』は『江戸名所図会』をベースにして明治時代に作られた別の本だそうです。



おまけ:伝説は今でも生まれつづけている

 お玉ヶ池は桜の名所だったので、桜ヶ池とも呼ばれていたそうです。ある会社のビルの前に下のような看板が立っていました。
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 字がびっしり書いてあって解読が難しいのですが、かいつまんで説明すると、

・お釈迦様が法華経を説いた時に傍らで聞いていた八大竜王のひとりが西暦800年ごろこの地に降り立ったらしい。
・それを記念する石碑が池の近くにあり、信仰を集めていたらしい。
・1600年ごろ、徳川家康が江戸幕府開設の街作りのために桜ヶ池を埋め立てたらしい。
・その頃から石碑が見当たらなくなっており、池に沈んだのではないか。今では文献も失われて残っていない(!)。
・…ということを山形県の霊能者に教えられて(!!)、神を冒涜したままでは縁起も悪いので、なんとか本物の神様であることを証明しようと念じていたら、ラップ現象が起こり、大願成就したことを感じた。
・長く音信不通だった霊能者とも連絡が取れて、それはまさしく神様だ、ということになった。
・元桜ヶ池の竜王様と念じれば、心が正しい人にはかならず良い計らいがあるはず。

ということらしいです。どこまで本当かはわかりませんが、これが何世代も言い伝えられたら立派な伝説だと思います

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