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#伝説 兎園小説から古事記まで、壮大につながっちゃたうつぼ舟の話

 うつぼ舟関係を落書きしてたら、壮大に古事記までつながっちゃったので記事にしてみた。「うつぼ舟」あるいは「うつろ舟」というのは、カプセルみたいな形の舟のことです。

 最近この話がちょっと注目されていて、いくつか本も出ているらしいんですが、自分の考えがまとまってないうちに読むと頭こんがらがるのでまだ一冊も読んでないです。

1803年のうつぼ舟事件(兎園小説)

 まずは基本からおさらい。これは『兎園小説』という江戸時代の本に載ってる話。


 享和三年(1803年)癸亥の春二月廿二日、現在の茨城県にあたる常陸国の海岸に図のような うつぼ舟 が流れ着いた。中に女が乗っており、手に箱を持っていた。言葉は通じなかった。

 古老がいうには「かつて同じようにうつぼ舟で蛮女が流れ着いたが、舟の中には人の生首があった。おそらく、この女も同じく、不倫の罪で流されたのであろう。箱の中には不倫相手の男の首が入っているに違いない」というのだった。

 役所にどうすればいいか問い合わせたが、まともに取り合う予算もないし、こういったものを突き流した先例もある、というので、女を舟におしこんで海に流してしまった。

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▲前に書いたのに色塗った。つい手がすべって999に乗れって書いちゃったけど、この状況だと波動エンジンの設計図を持ってるサーシャのほうがピッタリ来るような気もする。


 『兎園諸説』は滝沢馬琴と仲間たちの同人誌のようなもので、どこまでが創作で、どこまでが本当に当時流布したうわさ話なのかはわからない。うつぼ舟事件については兎園小説以外にも、同じような内容の記録が複数あるそうな。

 事件があったのは1803年とされており、兎園小説が発行されたのが文政八年(1825年)ごろとされている。

 古老が「かつて同じことが」と言っている、生首と一緒に流れてきた女の話は、ひょっとすると『鸚鵡籠中記』に元禄十二年(1699年)にあったとされる事件のことを言っているかもしれない。原典を読みたいんだけれど、活字になっているものは抜粋ばかりで問題の部分が収録されていない本ばかり。ネット情報によれば「熱田に流れ着いたうつぼ舟の中に、坊主の首と女が乗っていた」という話らしい。

金色姫伝説(養蚕秘録)

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 現在の茨城県日立市川尻町にあたる常陸国豊良湊に うつぼ舟が流れ着いた。この舟は桑の木をくりぬいたもので、中に美しい娘が乗っていた。

 この娘は天竺の霖異大王の姫で、継母に四度もいじめ殺されそうになったため、大王があわれんで姫を舟に乗せて逃がしたのだという。

 姫はしばらくこの地で暮らしたが、ほどなくして死んでしまった。その魂は絹糸を吐く虫(蚕)になったと言われている。


 この話が収録されている『養蚕秘録』は享和三年(1803年)に発行されていて、馬琴が『兎園小説』に記録した うつぼ舟事件のあった年も享和三年。馬琴はこの話をもとに創作したんじゃないだろうか。

 なお、金色姫の話は、つくば市にある蚕影神社の縁起書にもあるんだそうで、それがいつごろの成立なのかはちょっとわからない。縁起書によると、霖異大王は欽明天皇と同じ時代の人という設定だそうで、ここ重要なので覚えておいて!

◎ちなみに金色姫が流れ着いた川尻ってこんなとこ!
http://www.chinjuh.mydns.jp/cgi-bin/blog_wdp/diary.cgi?no=1797

秦河勝もうつぼ舟野郎だってことに気がついた(風姿花伝)

 秦河勝(はたのかわかつ)というのは聖徳太子の時代の人で、神楽の創始者だと言われている。この人もうつぼ舟野郎だってことに最近気がついたので、まあ聞いてちょうだい。世阿弥の『風姿花伝』に出てくる、申楽(神楽)の始まりを説明する話。応永二十五年(1418年)の本。
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 上宮太子(聖徳太子)の時代に国に良くないことがあり、これを鎮めるために六十六の面を作って秦河勝(はだかわかつ)という者に与えた。河勝がその面を使って六十六番の物まねをしたところ、天下が治まったという。

 この河勝という者は、神仏の化身だったと言われている。大和の初瀬川が増水した時、河上から流れてきた壺の中に美しい赤ん坊が入っていた。これは天から下った人に違いないというので、内裏(御所)にいかがいたしましょうと問い合わせた。

 その夜、帝の夢の中に赤ん坊が現れて、自分は秦の始皇帝の生まれ変わりで、縁あって日本に来たのだ、と言った。帝は大変不思議がって、この子供を殿上に招いて育てた。とても利発な子供で、十五歳にして大臣の位につき、秦(はだ)の姓を賜った。

 欽明天王から、推古天皇まで四代の帝と、聖徳太子に仕えた後に「化人跡を留めぬ」と昔から言うように、うつぼ舟に乗って風任せに西の海へ流れて行ってしまった。播磨国の越坂浦というところに流れ着い時にはすでに人の形をしておらず、いろいろな人に憑依して不思議な現象を起こしたという。そこで人々は神とあがめて大荒大明神(おおさけだいみょうじん)と名付けた。


 どうよ? 壺に乗って流れてきたっていうのがもう完全にうつぼ舟状態だし、姿を消す時にうつぼ舟に乗って流れて行ったっていうんだから完璧にうつぼ舟野郎です。大変ありがとうございました。

 「化人跡を留めぬ」というのは、神仏の化身は用が済んだら姿を消すものだ、というお約束を言ってるようです。

 ちなみに、欽明から推古まで四代の天皇と書くとすっごく長いように感じるけれど、みな在位が短いのでその間せいぜい30〜40年くらいだと思います。

 ここでこれまでに読んだことを思い出して!

『兎園小説』
・うつぼ舟に乗ってきた女を、どうすればいいかと役所に問い合わせた。
・ある罪で流された女だと推測されている。
・もとどおり船に乗せて流してしまった。
・享和三年の出来事

『養蚕秘録』『蚕影神社の縁起書』
・養蚕秘録は享和三年発行の本
・うつぼ舟に乗ってきた娘の父親はインドの王様で欽明天皇の時代の人
・養蚕という国にとって重要な産業のはじまりになる。
・わりとすぐ死んじゃう。

『風姿花伝』
・欽明天皇の時代
・秦河勝は赤ん坊の頃に壺に乗って流れてくる
・赤ん坊をどうすればいいか内裏に問い合わせている
・天皇や聖徳太子のもとで国を治める補佐をする
・河勝はうつぼ舟に乗って姿を消す


 この一致は偶然なんだろうか? 金色姫伝説が、風姿花伝にインスパイアされている可能性が高いし、馬琴が記録している蛮女inうつぼ舟の話は、その両方を摘み食いしつつ話を膨らませているように見えないだろうか。


 では、うつぼ舟伝説は風姿花伝がルーツなのか?

 いやいや、もっと昔の例があるじゃない?

かぐや姫もうつぼ舟に乗ってきた?

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 竹をとって暮らしていた翁が、光る竹を切ってみたら、中から美しい姫が出てきた。

 この姫はあっという間に成長し、たいそう美しいとの評判は帝の耳にも入るほど。数々の男から求婚をうけるがこれらをすべて退ける。

 この姫、ある罪により月世界より流刑にあい、人間の世界にやってきたという。満月の夜に月からの迎えがあり、帝の兵士が必死で抵抗したが歯が立たず、月へ帰ってしまった。


 ご存知『竹取物語』のお話。この話が正確にいつ成立したかはわからないそうですが、『源氏物語』などに記述があるので10世紀には存在していたらしいですよ。

 かぐや姫の話には、海や川を流れてくるという部分がないけれど、竹という中が空洞になっている植物の中にいたんだから、これはもう、うつぼ舟の仲間と言っていいんじゃないだろうか。

・罪があって月から落とされた
・評判が帝の耳にも届く
・わりとすぐ月に帰ってしまう=化人跡を留めぬ


 じゃあ、かぐや姫がうつぼ舟のルーツなの?

 まてまて、もっと古いのがあるじゃない??

スクナヒコナノミコト(古事記)

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 大国様ことオオクニヌシノミコトの時代に、海の向こうから小さな神がやってきた。天之羅摩船(ガガイモの殻だと言われている)、蛾(あるいは鵝)の皮を身に付けていたという

 この神のことを誰も知らなかったのでタニクグ(ヒキガエルのことらしい)に聞いたところ「クエビコ(かかしのことだと言われてる)に聞いてこらんなさい」と言った。

 するとクエビコは「スクナヒコナノミコトでございます。カムムスビ神のお子様でございます」と、小さな神の名を言い当てたという。

 カムムスビ神にお伺いをたてたところ、まちがいなく自分の子で、自分の手の股から落ちたものだ、と言うのだった。

 スクナヒコナノミコトは、オオクニヌシの手伝いをしたあとに、穀物の穂をバネにして、どこかへ跳んでいってしまったのだった。

ガガイモ
▲ガガイモはこんなやつ。中空の実の中に綿毛のはえた種ができる。パクッと割れると種が風にのって飛んでいくという仕組みです。

・ガガイモの舟にのってやってくる。ガガイモの殻はカプセルみたいなものだから、うつぼ舟じゃない?
・この神の対処法をヒキガエルやかかしにお伺いをたてて、最終的にはカムムスビ神にまで話が通る。
・オオクニヌシとともに国を治める仕事をする。
・用が済んだらどっかへ跳んでいっちゃう。

 『古事記』『竹取物語』『風姿花伝』『金色姫』『兎園小説』これら全部繋がってると思いません?



スクナヒコナ
▲昔書いたやつ。オオスカシバの皮をきせてみた。


◎珍獣様の博物誌「ガガイモ」
http://www.chinjuh.mydns.jp/hakubutu/plantoj/gagaimo1.htm
 ガガイモの話は大昔(10年くらい前か?)にこのへんにも書きました。


続き

世阿弥『風姿花伝』第四神儀云より
(底本:岩波文庫『風姿花伝』)

 一、日本國においては、欽明天皇の御宇に、大和國初瀬の河に洪水の折節、河上より一つの壺流れ下る。三輪の杉の鳥居の邊にて、この壺を取る。中にみどり子あり。貌(かたち)柔和にして玉の如し。これ、降人(ふりびと)なるが故に、内裏に奏聞す。その夜、帝の御夢に、みどり子の云はく、「我はこれ、大國秦始皇の再誕なり。日域(じちゐき)に機縁ありて、今現在す」と云ふ。帝、奇特に思し召し、殿上に召さる。成人に從ひて、才智人に越え、年十五にて大臣の位に昇り、秦(はだ)の姓(しょう)を下さるる。「秦」と云ふ文字、「はだ」なるが故に、秦河勝(はだかうかつ)これなり。

 上宮太子、天下少し障りありし時、神代・佛在所の吉例に任せて、六十六番の物まねを、かの河勝に仰せて、同じく六十六番の面を御作にて、即ち、河勝に與へ給ふ。橘の内裏、紫宸殿にて、これを勤ず。天下治まり、國静かなり。上宮太子、末代のため、神楽なりしを「神」といふ文字の偏を除けて、旁を残し給ふ。これ、日よみの申なるが故に、申楽と名附く。即ち、楽を申すによりてなり。または、神楽を分くればなり。

 かの河勝、欽明・敏達・用明・崇峻・推古・上宮太子に仕へ奉り、この藝をば子孫に傳へ、化人跡を留めぬによりて、摂津國難波浦より、うつぼ舟に乗りて、風に任せて西海に出づ。播磨國、越坂浦(しゃくしのうら)に着く。浦人舟を上げて見れば、形、人に變れり。諸人に憑き祟りて奇瑞をなす。即ち、神と崇めて、國豐かなり。大きに荒るると書きて、大荒大明神(おほさけだいみやうじん)と名附く。今の世に霊験あらたなり。本地、毘沙門天王にてまします。上宮太子、守屋の逆臣(げきしん)を平げ給ひし時も、かの河勝が神通方便の手にかかりて、守屋は失せぬと云々。



滝沢馬琴『兎園小説』
(底本:歴史春秋出版 『日本随筆大成(第2期 第1巻) 兎園小説 草廬漫筆』)

うつろ舟の蛮女

 享和三年癸亥の春二月廿二日の牛の時ばかりに、当時寄合席小笠原越中守[高四千石、]知行所常陸国はらやどりといふ浜にて、沖のかたに舟のごときもの遥に見えしかば、浦人等小船あまた漕ぎ出だしつゝ、遂に浜辺に引きつけてよく見るに、その舟のかたち、譬へば香盒のごとくにしてまろく長さ三間あまり、上は硝子障子にして、チヤン(松脂)をもて塗りつめ、底は鉄の板がねを段々筋のごとくに張りたり。海巌にあたるとも打ち砕かれざる為なるべし。上より内の透き徹りて隠れなきを、みな立ちよりて見てけるに、そのかたち異様なるひとりの婦人ぞゐたりける。

 その図左の如し

 そが眉と髪の毛の赤かるに、その顔も桃色にて、頭髪は仮髪(いれがみ)なるが、白く長くして背に垂れたり。[頭書、解按ずるに、二魯西亜一見録人物の条下に云、女の衣服が筒袖にて腰より上を、細く仕立云々また髪の毛は、白き粉ぬりかけ結び申候云々、これによりて見るときは、この蛮女の頭髷の白きも白き粉を塗りたるならん。魯西亜属国の婦人にやありけんか。なほ考ふべし。]そは獣の毛か。より糸か。これをしるものあることなし。迭に言語の通ぜねば、いづこのものぞと問ふよしもあらず。この蛮女二尺四方の筥をもてり。特に愛するものとおぼしく、しばらくもはなさずして。人をしもちかづけず。その船中にあるものを、これかと検せしに、

水二升許小瓶に入れてあり。[一本に、二升を二斗に作り、小瓶を小船に作れり。いまだ執か是を知らず。]敷物二枚あり。菓子ようのものあり。又肉を煉りたる如き食物あり。

浦人等うちつどひて評議するを、のどかに見つゝゑめるのみ。故老の云、是は蛮国の王の女の他へ嫁したるが、密夫ありてその事あらはれ、その密夫は刑せられいを、さすがに王のむすめなれば、殺すに忍びずして、虚舟(うつろぶね)に乗せて流しつゝ、生死を天に任せしものか。しからば其箱の中なるは、密夫の首にやあらんずらん。むかしもかゝる蛮女のうつろ船に乗せられたるが、近き浜辺に漂着せしことありけり。その船中には、爼板のごときものに載せたる人の首の、なまなましきがありけるよし、口碑に伝ふるを合せ考ふれば。件の箱の中なるも、さる類のものなるべし。されば蛮女がいとをしみて、身をはなさゞるなめりといひしとぞ。この事、官府へ聞えあげ奉りては、雑費も大かたならぬに、かゝるものをば突き流したる先例もあればとて、又もとのごとく船に乗せて、沖へ引き出だしつゝ推し流したりとなん。もし仁人の心もてせば、かくまでにはあるまじきを、そはその蛮女の不幸なるべし。又その舟の中に、■■■■等の蛮字の多くありしといふによりて、後におもふに、ちかきころ浦賀の沖にかゝりたるイギリス船にも、これらの蛮字ありけり。かゝれば件の蛮女はイギリスか。もしくはベンガラ、もしくはアメリカなどの蛮王の女なりけんか。これも亦知るべからず。当時好事のものゝ写し伝へたるは、右の如し。図説共に疎鹵にして具ならぬを憾とす。よくしれるものあらば、たづねまほしき事なりかし。

# ■■■■等の蛮字:■の部分は書けないので本文の最初の図を参照のこと。



 あまり校正していないので内間違いはあると思います。勉学に使うなら原典をあたってください。

#ひとつ誤字らしきものを発見、兎園の冒頭で「牛の時」とあるのは「丑の時」だと思いますが、もとにした本が手元にないのでほっときます。

タグ:伝説

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